昨日は、広島県府中市のエキスルーで哲学カフェでした。
府中の天満屋と道の駅の間にあります。
対話の前に、道の駅で腹ごしらえもできます♪
前回までは国府公民館でやってたんですが、こちらに新しく集まれる場所をつくろうと、ただいま絶賛リフォーム中のようです。
お向かいは、なにやら発掘作業をしているようです。
看板の右側に貼られてる週報がおもしろいので、お近くの方はぜひ読んでほしい。
前週の発掘作業がどのように進んだか(進まなかったか)、何がわかったか、今後の期待(どういったものが出てきそうか、どう進みそうか)などなど、わかりやすく解説してくださっています。
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雑談して人を待ちつつ、やや遅れてはじまった哲学カフェのテーマは「暮らしやすさってどういうこと?」。
物理的な暮らしやすさと精神的な暮らしやすさ。
都会と地方のちがい。
地域の情報のあり方と、コミュニティのあり方。
リアルな人間関係と、ネット上での人間関係と、両者のつながり。
行政の仕事はなぜ「お役所仕事」になってしまうのか。
‥‥‥などなどが出てきましたが、特に意外で印象深かったのが、このテーマのなかで音楽や演劇など文化活動に関する話題が、多く出てきたこと。
そして、暮らしやすさと行政の仕事が、なぜ結びつきにくいのかという疑問。
すでにインフラが十分に整っているからというその一方で、均一化されたサービスしか提供できないという縛りが、行政で働く人や彼らと交流する時間から人間らしい凸凹を奪ってしまってはいないかと、考えさせられました。
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もうひとつ、テーマとは別に、終了後の雑談で前回からのリピーターさんに興味深い感想をいただきました。
曰く、「前回参加したあと、体調がよくって。絶対また参加しようと思ってきました」と。わかる!!!
哲学カフェで頭と口を使うのはわかるけど、それがどう体調に結びつくんだと思う人もいるだろうけど‥‥‥
自分の考えを表現して、それにちゃんとレスポンスをもらう。
自分も他の人の言葉に耳を傾けて、なにか反応を返す。
そうした等身大のやりとり自体が、健康的といえるんじゃないかなぁ。
哲学的なモヤモヤは尽きないけれど、余計なしがらみとかプライドとか考えなくていい。その状態が、心身を軽くしてくれるような気がする。
わたしもなかなか酷い生理痛もちで、実は昨日もがっつり生理痛だったんですが、哲学対話の最中は痛みも忘れられるし、対話の後は対話の余韻で精神が等身大に保たれてるせいか、痛みが戻ってきても「私ってだめだなぁ」と無駄に落ち込まずにすむ。「今日は調子悪いから、しゃーない」と受け入れやすい。
おそらく、これが一昨日紹介した記事で 言われてた「明らめる」というやつなのでしょう。
対話のなかでは、等身大の自分がその場に受け入れられることによって、受け入れ難い現実から目を背けず「明らめる」余裕や勇気を得られる気がします。
もしかして、これが、私が対話のなかで感じているエンパワメントの仕組みなのかなぁ。
※おまけ※
昨日開始前の雑談でお話しした、週末縄文人のチャンネルです。
数々の革命を経て、わたしたちの暮らしやすさは成り立っているのかもしれない。