調べ物をしていたはずなのに、脱線することがよくあります。
そんな脱線のなか、出会ったフレーズ。
この世には矛盾が佃煮にできるほどあります。
引用元ははこちら。仏教における「真理」ってどんなのか、気になるやん。
*
「矛盾」ときくと、「間違いだ」「存在しちゃいけないもの」とおもってる人は多い。
対話のなかで「すみません、私の言うこと、矛盾してますよね」なんて、きくことが多いのは、そのせいだろう。
でも、矛盾ってそう悪いものじゃない。
矛盾にはヒントがたくさんつまってる。
わたしがそう初めて意識したのは、たぶんヘーゲルについて勉強していたときだったと思う。
ヘーゲルは、「主人のほうが奴隷よりえらいはずなのに、奴隷がいないと主人は主人でいられない」といった矛盾から、弁証法という二律背反を超えるなんかすごいものを発見しちゃった人だ。*1
矛盾は、世界を構成する動的なものに目を向けさせてくれる。
じっとしてたら見えてこないなにかに、気づかせてくれる。
というのが、わたしがヘーゲルと(とあるヘーゲル研究者と)対話実践から学んだことなのだけど。
この世には矛盾が佃煮にできるほどあります。(名取 芳彦/密蔵院住職)
まったく異なる文脈で、この言葉に出会って、うれしくなる。
「佃煮にできるほどあります。」
ぷぷぷぷぷ。この住職さんは、茶目っ気のある人だなぁ。
「矛盾してるじゃないか」と戸惑う人の、肩の力をふっと脱いてくれる言葉選び。
そして、それが仏教の考え方に根ざしているというのが、興味深い。
真理の探究には、「矛盾なんてあるはずがない/あってはならない」という方向もあると思う。理想的で理念的な世界を思い描くには、こちらのほうが向いてるだろう。
でも、わたしには「この世には、矛盾もあるよね。この矛盾から何がわかるだろう?」という方向で考えるほうが、合っている気がする。こちらのほうが、肩の力を抜いて、現実に向き合える気がする。
*1:「なんかすごい」という稚拙で曖昧な表現を用いたのは、もちろん、ちゃんと理解している自信なんてこれっぽちもないからである。ちゃんとは理解してないが、「なんかすごい」と思っちゃうことが、人間にはあるのだ。あしからず。