先日、いわて哲学カフェのオオマツさんとメッセージをやりとりする機会があり、こんなご質問をいただきました。
人伝に、松川さんは哲学カフェで「ケア」を重視している、というお話を伺っております。私は専攻が「臨床心理学(心の問題を扱う心理学)」なため、哲学カフェの進行でも「受容的な」姿勢を取るように心掛けているのですが、松川さんの仰る「ケアを重視する」とは、どう言ったことなのでしょうか。(いわて哲学カフェ オオマツさん)
わたし自身、何度か考えてきた問題ですが、書き残す機会がありませんでした。
オオマツさんに了承も得られたので、オオマツさんへのお返事を(ほんの少し補足を加えて)ここに転載しておきます。
===以下、まつかわのお返事===
わたし自身は、ケアより哲学の「真理を探究する」ほうを重視しているので、哲学プラクティショナーのなかではケアを重視しないほうだと思っています。
わたしよりもっとケアを重視している哲学プラクティショナーは、たくさんいます。
たとえば、こちらの方々とか。
ただ、哲学の「真理を探究する」という姿勢の結果、ケアを重視しているように見えることはあるかもしれません。
結果的にそうなる理由は、2つ考えられます。
1)真理を探求するには多角的にテーマについて検討する必要があるため、参加者が他の参加者への反論や矛盾も含め、自分の感じたこと考えたことを忌憚なく話しやすいように最大限配慮していること。
席の配置、テーマ設定、参加者への声かけなどだけでなく、(効果があるかどうかは不明ですが)服装なども話しかけやすいよう気をつけています。
そうした工夫が、側からみると「受容的な態度」と見えるかもしれません。
実際、参加者のなかには自分がまだ知らない真理が埋まっているという姿勢をもっています。
が、真理探究が目的なので、ときには参加者にツッコミを入れたり反論を述べたりすることもありますし、話の長い参加者がいたら途中で話を遮りストップをかけることもあります。
2)もうひとつの理由は、真理探究の「真理」のなかには、常に倫理的なものも含まれると考えており、対話の内容だけでなく、対話中の自分の態度やふるまいが適切かどうかという判断が働いているからかもしれません。
特に学校の授業や職場研修など、非自発的な参加者が含まれる場合は、参加したくない人を付き合わせること自体が倫理的に許されるかどうかという問題が含まれるので、非自発的な参加者の関心に寄り添うような対話をと心がけています。
どちらの場合も、受容的な態度があるとすれば、真理探究の結果であるということになります。
===オオマツさんへのお返事はここまで。===
教育への関心が薄いのであまり真面目に読んでこなかったけれど(本を読むより実践優先で生きてるので)、改めて読むと、わたしの考えはリップマンと重なるところが多い気もします。(って、これ、この本の監訳者の一人である土屋さんにも指摘されたことがある気がするなぁ。)
ケア的な思考には二つの意味がある。一つには、気遣いをもって私たちの思考の主題を考えるという意味で、もう一つは、思考の方法について関心を持つことである。(マシュー・リップマン『探求の共同体:考えるための教室』p.378)
思考教育への教育学的なアプローチは、情緒的思考を含めねばならない。それは、単に民主主義的多元主義への漠然として忠誠に敬意を表するという理由だけではなく、他の種類の思考のあり方をきちんと認めていないと、既知のタイプの思考ばかりを扱うという浅薄なことになってしまうからである。(マシュー・リップマン『探求の共同体:考えるための教室』pp.385-386)
考え方としてはリップマンに近いかもしれない。
けれど、リップマンに触れつつそれとは別の次元に辿り着いたほんまさん、高橋さんの背中をみて一緒に実践しながら哲学プラクティスを学んできたので、お二人の姿勢が実践に染み込んでいたりもすると思います。