先週末は、カフェフィロ主催。
哲学カフェについてモヤモヤする会+:「話が長い」問題を再考する、でした。
進行に関心がある方向けのイベントで、進行役からよくきく悩みだったので、参加者がそこまで多くなかったのは、ちょっと意外でした。
進行しはじめの頃はよく出る悩みだけど、経験を積むと解消されていくのか?
年度末でみなさんお忙しいからなのか?
その辺りもちょっと気になりましたが、進行経験(だけ)は多い私にとっても学びの多い会となりました。
「話が長い」と感じるかどうかは、物理的な時間の長さではなく内容によるな、というのは以前から思ってました。
これはこれで、大変興味深く。
やっぱり他の人たちもテーマとの関連が見えにくい発言は長く感じやすいのだなとか、演説会でも自助グループでもない、対話をするとはどういうことなのかということにも関連しそうな問題なんだ、とか、語り合うことでだいぶ言語化できた気がします。
一方で、今回私にとって大きな発見だったのは‥‥‥
「話が長い」というのは、表面的な症状(というのは語弊があるかもしれませんが)にすぎないらしいということ
その奥に、様々な気持ちや考え、事情があるということ
私が避けたいと思っている「話が長い」は、さまざまな「話が長い」のほんの一部にしかすぎないらしいということ
‥‥‥でした。
相手に聞いてもらえてるという実感が得られなくて、同じ話を繰り返してしまう人(ちゃんと聞いてもらえてるという安心感があれば、繰り返さなくてすむ人でもある)。
特性で話し出すと止まらなかったり、大人数で話すときのタイミングを掴むのが苦手な人。
ある程度まとめて話さないと相手に伝わらないのではと考える人。
キャッチボールのような対話に慣れていない人。
自分の話をきいて、褒めてほしい人。
テーマに関連した部分だけを切り取るのが難しくて長くなっちゃう問題etc...
それから、私のなかでは「話が長い」とは別個のこととして認識していた、話すのがゆっくりな人(文字盤をつかって話す人や、発語がゆっくりな人)や、ボリュームが大きい話(テーマに関連した対話の土台になるようなエピソードトークなど)‥‥‥
それも含めて、一概に「話が長い」でくくらず、
- なぜ話が長いと感じるのだろう?
- 私がテーマとの関連を見つけられないから長く感じているのか?
- それとも別の理由があるのか?
と、ひとつひとつ、その「話が長い」の根っこにある気持ちや考え方や事情に目を向ける必要があると感じました。
たぶん、一番避けたいのは、場の目的を取り違えること。
哲学カフェは、演説界や発表会ではないし、自助グループやカウンセリングの場でもない。
哲学カフェは特定の人の話を「きいてあげる」ための場ではない、と私は思う。
育児中の方が対象の哲学カフェや、福祉施設や病院での哲学カフェは、誰かの悩みからはじまることが多いけれど、それでも、だ。
対話の場だから、もちろん、きく(聴く、聞く)ことは大事にしたい。
だけど、大事だからこそ、特定の誰かの話をきくことに終始して、他の人の話をきく機会を奪ってしまうのは避けたい。
「きいてもらう人」と「きいてあげる人」と役割が固定してしまうのは、違和感がある。
その一方で、テーマについて考えるうえでポイントになりそうな発言というのは、どうしてもボリュームが大きくなるし、要や指標になる考えを提示した人の発言機会が多くなるのは自然なことでもある。
進行役は「テーマと関係ないんじゃない?」と思っていても、他のだれかが「テーマを考えるうえでとても重要な話だ」と感じているかもしれない。
その辺りの判断はとても、やっぱりとても微妙で難しい。
進行役が己の勘で「ちょっと待って」と止めたほうがよい場面もあるだろうけど、そうしながらも、最終的には参加してるみんなにききながら判断していくのがいいんだろうな。
いずれにせよ、ある参加者が言ってくれた「“きく”という側面からこの問題を考えるべきではないか」という視点は、とても大切な気がする。
進行経験が長くなってくると「話が長い」への対処もある程度慣れてきて、しばらく深く考えてなかったけれど、みなさんとじっくり話してみると「対話とはなにか」に深く関わる問題でもあるということが見えてきて、大変勉強になりました。
ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。