先日、とある哲学カフェのふりかえり&打ち合わせで、早口だったり滑舌の問題で話がききとりにくい人がいるときにどうしよう問題(?)について話し合いました。
声が小さいとか、勢い余って早口になっちゃったという場合なら、「もうちょっと大きい声でお願いします」「もうちょっとゆっくりお願いします」と言えばいい。
けど、気をつけて変えられるようなものではない特性の場合、お願いしたってどうしようもない。相手を困らせてしまうだけだ。
だとすると、これもまた「話が長い問題」同様、先日のカフェフィロ主催モヤモヤする会である方がご指摘くださったように、きく側がどうきくか問題なんだろうな。
何度も一緒に対話するうちに、少しずつ慣れる。
慣れるというのは、コミュニケーションを重ねるうちに最初の頃よりはききとれるようになるという意味もあるけれど、それ以上に、ききとれない(一部がききとれないどころか断片的にしかききとれないこともある)ということに慣れる、ということも多いのではないか。
なんて思って自分自身をふりかえってみると、そもそも実は、私自身があまり耳がよくなかったりするのです。
聴覚障害というほどではないけれど、聴覚検査するとほぼ毎回やり直しになるレベル。
モスキート音も、まだ40代前半なのに60代ぐらいしかききとれてないし、音楽きいてても他の人にきこえてる音がききとれてないことがけっこうあるし(10年以上ピアノやってたのに)、人よりだいぶききとれてない音声がありそうな気がします。
そんな人が対話のファシリテーターなんて生業にしてていいのかよ、って感じなので、いままで黙ってたけど。(ごめんね。)
でも、もしかしたら、だからこそ、ふだんから論理力で聴力を補っているのかもしれない。
論理で推理しながら人の話をきく習慣がついているのかもしれない。
人より、論理の穴*1に気づきやすいのは、哲学のトレーニングを積んでいるからってだけでなく、難聴傾向のためかもしれない。
ききとれないことに慣れている。
ということに、気づきました。昨日ようやく。(びっくり)
ほんとにね、日常生活で、夫に突然新しい話題をふられると、全然ききとれないの。おばあちゃんみたいに、めっちゃききかえしちゃう。(そのたびに復唱してくれる夫に感謝しよう)
もちろん100%きけたらいいな、とは思うけど。
でも、みんな完璧な社会やコミュニティなんて、ちょっとこわい気もする。
「みんな不完全で、みんないい」ぐらいのほうが心地よいのではないか、と思ってみたり。
それに、実際みなさんと話してみて、できてることもけっこう多いことに気づかされたりもしたんです。
どんなに話がききとりにくくても、誰も怒らずいてくれるし。
きいてもらう側の人も、相手がききとれてなくても怒らないし。
ききかえしたら、ちゃんと説明してくれるし。(その説明がまたききとりにくいこともあるけれど)
私がききとりにくかった箇所を確認するために繰り返してるんだってことにも、みんなちゃんと気づいてくれてるし。
でも、「松川さん任せにしたくない、自分もきけるようになりたい」という気持ちももってくれているし。
ききとれた断片からテーマについて考えるヒントになることもあるし。
それが、たまに大きな思考の転換になったりもするし。
はじめて参加した人も、みんなが受け入れてくれる場だってことを感じてくれていたし。
コツコツみんなで対話を重ねてきたからこそ、だと思う。
そして、「ききとりにくい」問題を、こうやってちゃんとみなさんと話し合えて、うれしいな。
特に「ききとりにくい」問題が解決したわけではないけれど‥‥‥問題をみんなで共有することはできたし、みんなで感じてること気づいたことを出し合って眺めてみることで、自覚してなかった「できていること」に気づけたメタ対話の時間でした。
ききとれるように話すのが苦手な人も、私のようにききとるのが苦手な人も、排除されない対話の場があることに今後も感謝して大切にしよう。