先日、質問レッスンで、質問ワークをふりかえるなかで、こんな感想が参加者から出てきました。
「理由をきく質問をするのは、なんとなく躊躇してしまう」
なぜでしょう?
ぱっと思いついたのは、「なんで?」「どうして?」という言葉は相手を責めたり反論したりするのにも使われる言葉なので、そのせいかな、と。
例:「なんで遅刻したの?」
しかし、どうもそれだけではなさそう。
別の参加者から出てきたのは、こんな言葉。
「理由をきく質問は、本当に知りたいと思ってないと、出てこない」
なるほど。
なぜなぜ星人(一生、なぜなぜ期)のわたしには思い浮かばなかったけれど、たしかに思い当たることがある。
質問レッスンでも、誰かの心の底から「知りたい」「理解したい」という気持ちが溢れ出したときは、理由をきく質問もよく出る気がする。
じゃあ、心の底から「知りたい」「理解したい」と思う場合と、思わない場合、何がちがうんだろう?
そんなふうに考えて、ひとつの仮説に行きあたる。
変わる気があるかないか、じゃないか。
考えてみれば、理由をきくという行為は、自分の行為を変える気があるときにしか出てこない。
たとえば、昼ごはんどきに家族から「うどんがいいな」と言われた場合。
「えー、やだよ。ラーメンにしようよ」と反論をぶつけるときは、自分を変える気がない。相手を変えようとしている。
「いいね、うどんにしよう!」という場合は、そもそも自分を変える必要がない。だから理由を聞く必要もない。
理由をききたくなるのは、「わたしはラーメンの気分だけど、理由によっては、うどんもありかも」って場合だけだ。
理由が「体調が悪いから、あっさりしたものがいい」だったら、「じゃあ、体調が悪いほうに合わせてあげるか」と思うかもしれない。
「最近、うどん作りにはまってるから、つくったるわ!」だったら、「え、無料で手作りうどん食べてるなんて、ラッキー♪」と思うかもしれない。
「新規開拓したいから、新しくできた讃岐うどんの店に行きたい!」だったら、どうだろう?
「え、どこどこ?わたしも行きたい!」となる場合もあれば、
「新規開拓には賛成だけど、だったら、新しくできたラーメン屋にしない? わたし、今日はこってり気分なんだ」という場合もあるだろう。
理由を尋ねるという行為は、必ず自分の選択や判断が変わるかもしれないという可能性を含んでいる。
実際に変わるか否かはどっちでもいい。
その可能性を含んでいる、ということが重要なのだ。
一切変わるつもりがないのに理由を尋ねるなんて、相手にとっても自分にとっても、時間と労力の無駄遣いだもの。
哲学(philosophy)の語源は「知を愛する」と言われるけど、変わることを恐れているうちは、知を愛することも難しいのかもしれない。
「知を愛する」の「知」とは、決して机上の空論ではない。
その知が真理に近ければ近いほど、普遍的であればあるほど、わたしたちは変わらざるをえない。
相手から出てきた理由に説得力があれば、わたしたちは変わらざるを得ない。
だから、理由をきくのは、勇気がいる。
けど、ご安心ください。
それは決して「変わらなければならぬ」ということではありません。
相手の理由を理解したからって、自分の考えを手放す必要はない。
「新規開拓には賛成だけど、それならラーメンでもいいんちゃうん?」と思ってもいいし、
「新規開拓なんてせずに、せっかくお金を払うんだから確実に美味しい店に行きたい!」と思ってもいい。
変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。
だから、理由をきくのはおもしろい。
理由によっては、うどんもありかも?
そんな軽はずみな仕方で「理由によっては、その考えもありかも?」と考えてみる。
その可能性を担保しておくだけで、お昼ご飯の可能性も、自分自身の可能性も広がるのです。たぶん。