最近、時間的にも精神的にもちょっと落ち着かない日々が続いていて、全然活動レポートが投稿できていませんが、昨日の質問レッスンで気づいたことを備忘録。
昨日の質問レッスンで、「論理は破綻したりしないから、大丈夫」と自分の口から出てきたのをきいて、気づいた。
わたし、論理を重視しないタイプの哲学者だとおもってたけど、ちがったわ。
むしろ、めちゃくちゃ論理を信頼してる。
信頼が厚いあまりに、「論理は気にしなくていい」って言ってるタイプの人でした。
論理って、組み立てるものだと思ってる人にとっては、破綻しないように気をつけないといけないものかもしれない。
けれど、どうも、わたしは、論理は組み立てるものじゃなく発見するものだと思っているらしい。
ということも、論理を組み立て考えたわけじゃなく、自分が何気なく放った言葉から論理をたどって気づいたのだけど。
論理は発見するもの。
だから、見えないことや見間違うことはあっても、破綻することはない。
わたしの思考のなかにも、たぶん、まだわたしが気づいていない論理が埋まっていて、誰かに発掘されるのを待っている。
「ああ、なんか論理の飛躍や矛盾があるとおもったら、この論理が見えてなかったからなのね!」と。
矛盾や飛躍は、見えないなにかの存在に気づかせてくれる。
それが何なのか、すぐにはわからなくても大丈夫。
いまはまだ見えない何かが、そこに存在している。
そのことさえわかっていれば、手探りしながら探り当てることができる。
ところが、論理を組み立てようと一生懸命になりすぎると、矛盾や飛躍はあってはならないと、その見えない何かを理屈で覆い隠してしまう。
「論理的にはこうなるはずだ」と。
それが真理とは限らないことは、知の歴史が物語っている。
コペルニクスが、なぜ地動説を発見できたか。
天動説の穴を、「そんなはずはない」と言って既存の理屈で覆い隠してしまったりしなかったから。
「ここになにか、まだ説明のついてない穴があるな」とそのまんま受け止めたからだ。
それが何なのかすぐにはわからない、論理の窪みのようなもの。
そこにまだ見ぬ真理が潜んでいる。
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