いつ知り合ったのかはもう忘れてしまったけれど、最近学会の運営委員などでもご一緒させていただいている、たぶん歳下だけど憧れてしまう哲学者のひとり、永井 玲衣さんの、わたくし、つまりNobody賞受賞記念講演を読みました。
「暴力に抗して」というタイトルに、ドキッとする。
私にはとてもできない。
「暴力に抗して」人前で話すなんて恐ろしいと感じてしまう。
まちがったことを言ったらどうしようと、怖気づいてしまう。
でも、永井さんの言葉は、いつもそうなのだけど、等身大の怖気づきそうになる私のままで、暴力について、対話について、一緒に向き合えるよう誘ってくれる。
こうして、対話の場をつくることは、対話を拒む社会に対して緊張をつくり出します。対話は絶えざる力の行使によってようやく維持、拡大、深められていくものです。放っておいても、対話は出現しません。だからこそ、試みるものです。
ですが、それは勇ましく、ひとりですすむものではありません。
そう、対話はときに緊張を生じさせる。
いつもふわふわ楽しく優しいものであるとは限らない。
でも、緊張を孕むところにこそ、対話が必要なのではとおもう。
おもうのだけど、ひとりでできるものでもないし、拒まれたり無視されたりすると、めげそうになる。
ひとりでできるものではないから、めげそうにもなるし、ひとりではないから、だれかに救われたり、だれかと励ましあったりしながら進めたりもする。
わたしたちはすでに共に生きているという事実を、ないものにすること、あるいは見ないふりをするもの、それは暴力です。暴力は言葉をうばいます。表現をうばいます。とりかえのきかない考えを育むひとりの人間を消しさろうとします。
対話もまた暴力になりうる、とひとは言うかもしれません。もちろん言葉の暴力というものがあります。さまざまな理由で対話がむずかしい状況にあるひともいます。ですが、それがすなわち対話がすべて暴力であるということを意味しません。対話もまた暴力的だ、と結論づけてしまうことは簡単です。では、そうではない対話とは何なのかを考えるのが、わたしたちにできることなのでしょう。
ちょうど、先週末、札幌で「相容れないものと生きるって?」について、対話する機会があった。ただバラバラに在るのではなく「〜と生きる」とはどんな状態か。
その対話のなかで気づかされたのは、相容れない何かが相容れるのに変化するんどえはなく、相容れないものとしてあり続けるということは、「〜と生きている」からこそじゃないかということだった。
「〜と生きる」という状況があってはじめて、あるものが無視できない「相容れないもの」として立ち現れてくる。
永井さんのいうとおり「すでに共に生きているという事実を、ないものにすること」が暴力なのだとしたら、相手を相容れるものとして一方的に取り込んでしまったり、自分の生活になんの影響力も及ぼさないものとみなしてしまうことこそが、暴力なのかもしれない。
だから、一見、緊張感をともなわない場面にも、暴力は存在しうる。
対話なかで生じる緊張が、ちゃんと「共に生きること」から生じる緊張であるよう、試み続けよう。
永井さんの著作。
我が家で大ウケした、永井さんの「サッカー通への道」。