本日午前は、高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。
テーマはこちら。
このテーマ、難しいんですよ。
「どんなときに幸せを感じるか?」って聞かれたら、たいていの人は具体的に答えられるんだけど、そこから何か考えようとしたら一気に言葉が抽象的になって、伝わっているのか伝わっていないのかよくわからないやりとりが続いてしまったり、「人それぞれ幸せを感じるものはちがうね」という互いを尊重しているようで何の理解も生み出さない終着点に至ったり‥‥‥。
油断すると、なんの刺激も創造性もないぼやんとした時間になりかねない。
何度か「幸せ」や「幸福」についての対話に立ち会った経験からそんな警戒心を抱いていました。
それでも、今日、このテーマに挑んでみようとおもったのは、7月の打ち合わせに参加された方々が、「それでもやっぱり、みんなで考えたみたい」と躊躇する私の背中を押し、当日、進行役が困ったら助けてくれると約束してくれたから。
というのを、対話が終わったあと思い出しました。
実際に、その打ち合わせに参加してた方々の発言に大いに助けられたうえ、それ以外のの方も含めて全員の経験や個性が絶妙なバランスで合わさって、うん、なかなか噛み応えのある時間だったのではないでしょうか。
少なくとも、わたしの哲学史ノートの「幸せ」のページに加えたいぐらいの、あるいはこれを元に対話篇を編めそうな、思考を刺激してくる対話になったと思います。
最も大きな争点は、やっぱり、「幸せを感じるには何かしらの抵抗(マイナスの経験やマイナス要素との比較)が必要」派と「気分がよければ幸せ(マイナス要素はいらない)」派のちがいかなぁ。
前者では幸せと不幸が同時に成り立ちうるけれど、後者では同時には成り立ちそうにないのも含めて、興味深かったです。
あと、参加者のひとりが話してくださった「芍薬の香りを嗅ぐとおじいちゃんとの幸せな思い出が蘇り、幸せな気分になる」というエピソードが、印象的でした。
「いい香り」と「幸せな香り」はイコールじゃないということを教えてくれるという意味でも、幸せと時間の関係についても何かヒントが埋まっていそうという点も、聞くと幸せのお裾分けをいただいたような気分になるというところも、お気に入り。
そういえば、今日の対話では話しそびれたけど、うちの母は「より美味しくしよう」とどんどん料理を改良していくタイプなんですが、そうするとわたしにとっては思い出の味がなくなってしまうので、残念なんだよなぁ。
「気分がいいと幸せ」派が言うように、「美味しい」と「幸せな味」は重なることもあるけれど、重ならないこともある。
重なるほうと重ならないほう、どちらが例外なのかはわからないけれど。
心のなかで自分の思い出も参照しながら、どちらの説にも説得力を感じることができました。
他にも、
- 幸せを感じるのに比較は必要か?
- 幸せは、感覚なのか?認識なのか?出来事なのか?物理的な何かなのか?
- 幸せは客観的なものか?主観的なものか?
- 幸せな関係って?(個人の幸せと、関係性のなかの幸せ)
といった問いも浮かび上がってきました。
(こうした複数の問いを行きつ戻りつしているうちに、あの大きな争点がエベレストみたいに立ち現れたような気もする。)
最後の最後に出てきた「幸せな関係って?」という疑問については、また次の機会に考えてみたいね、と確認して、本日の対話を終了。
終了後も、机をもとに戻しながら、あれこれ話す人の姿あり。
「幸せ」という、ともすると漠然としがちなテーマについて、ちゃんと思考を刺激する切り口や見解の相違点が明らかになったのは、この公民館で、対話文化が育ってきた証拠でもあるような気がしています。
これまで何年も参加してきてくださった方と、最近参加し始めてくださった方と、今日はじめて参加してくださった方。
みなさんの個性がバランスよく発揮されたからこそ、思考を深める鋭い質問やツッコミがあり、理解を助けてくれる経験談や例があり、異なる見解の存在が明らかになり‥‥‥ということが起こった。
今日の対話で「その貴重さやありがたみがわかって初めて、幸せを感じることができる」という説も出ましたが、わたしにとって今日のふたばトークはまさにそういう意味で「幸せな幸せについての哲学の時間」でした。感謝。