先月末の8月29日(日)は、オンラインで岡山大学医歯薬学研究科主催の、医療者対象の哲学カフェでした。
今回のテーマは「呪いを信じる?信じない?」。
「交通ルールを守らない人に対して、『ちょっとした不幸が起こればいいのに』と思ってしまう」という人、
それをきいて「“呪う”と思ってことはないけれど、それならある」という人、
「人を呪わば穴二つ」という諺をあげ「呪ってしまうと呪いが返ってしまいそうで、こわい」という人、
言霊を例に挙げる人‥‥‥。
対話がはじまる前は、どんな話が出てくるのか、具体的な話が出てくるかどうか、ドキドキしてたんですが、話し始めると思いのほか身近な呪いの話が出てきました。
うれしい驚き。
そこから、それらの具体例を参照しながら、中盤は、主に以下の2点を行ったり来たりしながら掘り起こしていく展開だったような気がします。
1)なぜ呪うのか
妬みや、恨み、怒りを感じたからといって、なぜ「呪う」のか?という疑問に対して、自分ではどうしようもない、「できない」場合と、自分を手を下したくない、罪の意識を追いたくない「できるけどやりたくない」場合とがあるのではという指摘があったほか、なにかを「託す」という気持ちについても触れられました。
2)「念じる」と「呪う」の関係
「呪う」のほか「念じる」という言葉が出たので、両者の関係が論点に。
「呪う」は「念じる」の一種ではないか。
マイナスの「念じる」が「呪う」で、プラスの「念じる」が「祈り」ではないかという説が、特に言霊の例について考えるなかで出てきました。
さらに、上記2点について行き来するなかで、もうひとつ論点となったのが‥‥‥
3)“嫌だなと思う”、“念じる”、“言葉にする”のちがい
途中まで、マイナスの言霊とマイナスの念じるを同種のものとして話していましたが、「マイナスの言葉が相手に届いたら、それはもはや“念じる”とはちがうんじゃないか。それはもう攻撃だと思う」という声。
また、「同時に、単に嫌だなと思うのは、感情が動いたというだけで“念じる”や“呪い”とは異なる」という指摘も。
ここから、それまで広がっていた“念じる”の範囲がある程度限定され、“呪い”の意味もより明確になったような気がします。
全体をとおして、「呪い」というおどろおどおろしいキーワードを介して、「念じる」という行為について色々わかったのが興味深かったです。
「念じる」という行為は、「薬が効きますように」「手術がうまくいきますように」というふうに医療現場でわりと日常的だと思うのですが、それは、医療現場では知や技術を尽くしてなお、人間の力の及ぼないことがあると人々が知っているからではないか。
人生には、自分ではどうしようもないことでも、諦めたり割り切ったりせず、何かに託さずにはいられない場面があるのではないか。
みなさんのお話をききながら、そんなことを感じました。
最後に、MOさんが対話メモをご紹介。
みなさんと話ながら、かいてるそうです。
わたしが上記で拾えてないけれど、対話のなかで盛り上がった、「自分に対する呪い」や「鳩時計」なども盛り込まれてますね。
素敵。
次回の対話とともに、次回作も楽しみです。