先週末は、年に1度の哲学プラクティショナーの集い、
哲学プラクティス連絡会と‥‥‥
哲学プラクティス学会が開催されました。philopracticejapan.jp
哲学プラクティスっていうのは、哲学カフェや、子どもの哲学など、コミュニケーションを介した哲学実践のこと。
これまでシンポジウムに出してもらうくらいの関わりしかできなかったけれど、今年はオンライン開催の2年目ということで、連絡会のほうでは実行委員を、学会では2つの発表をさせていただきました。
様々な発表やワークショップに参加してがっつり学ばせてもらっただけでなく、これまで主催者と参加者という関係だった人と協働できたり、こうした集まりがどうやって運営されているかもわかって、大収穫の2日間。
特に今年は、連絡会で「哲学プラクティスの安心・安全」が、学会で「哲学プラクティスの倫理」が大会テーマとして掲げられ、今後も考えていきたい問題として、たくさんの人に共有されました。
わたしは、他のお部屋のスタッフをしていて(そちらはそちらでたくさんの出会いと発見がありました!!)、連絡会のほうの安心・安全に関するプログラムには参加できなかったので、それを踏まえた話はできないのですが‥‥‥企画会議をとおして、学会のプログラムをとおして、改めてあれこれ考えることはありまして‥‥‥。
ぶっちゃけ、哲学って今も昔もリスクをともなう実践だ、とわたしは思うのです。
わたしたちの暮らしや人生や社会を支えている当たり前を問い直される。
何かを変えたい、変わりたいと思ってるときには、それが救いになることもある。
けど、思わぬ方向から、自分の土台が揺さぶられたり、崩れ落ちてしまうような恐怖を感じることもある。
見て見ぬふりしていたかった真実を、眼前に突きつけられることも。
哲学が知を愛し、真理を探究する営みである限り、
そうした痛みと無縁ではありえないのではないでしょうか。
わたしが自分も含めてみんなが安心して参加できているか、愉しめているか、
気にかけるのは、哲学カフェが誰も傷つきえない場だからではなく、
むしろ、リスクがあることを知っているからのような気がします。
痛みをもたらすのは、自分自身の視野の狭さや至らなさのこともあるし、
自分には到底受け入れ難い誰かの発言や考えのことも。
新しい思考に出会うことで、新しい可能性が拓かれる。
哲学がもたらしてくれる自由をわたしはなにより愛していますが、
痛みをともなうときは、
「それでも知を愛するか?」「知と引き換えに、その痛みを受けいれるか?」
と問われているような感覚を味わいます。
いや、事実、問われているのでしょう。
その痛みを知っているからこそ、
そして、誰かが一緒にいてくれたおかげで、
痛みにめげずに新しい思考に出会えた経験があるからこそ、
ひとりで飲み込ませるのではなく一緒に受けとめることはできないか、
と模索してるのかもしれません。
自分も誰かを傷つけてしまうかもしれない、というリスクを負いながら。
その事実から目をそらさずにいられるか、と自問自答しながら。