8月7日(土)は大元公民館で、子育てモヤッとニコッとカフェでした。
めずらしく、夏休み中の土曜開催。
テーマは、「親として努力するって?」。
「親として努力が足りないんじゃないか」と言われたときのモヤモヤから生まれた問い。
自分が親にして欲しかったことは子どもにしてあげたいけど、やり過ぎもいけない気がする。匙加減が難しい。
自分が親にしてもらってないことはできない?
母親と父親とで求められることに差があるのはなぜ?
努力と、期待や責任との関係は?
ただ何かをすることと努力することはちがう?
しんどいかどうかと、努力してるかどうかは別?
そもそも「親」って何だろう?
そんな疑問がぐるぐるぐるぐる。
あっちにこっちウロウロしながら、それでもやっぱり気になるのは、このテーマのきっかけとなった「親として努力が足りないんじゃないか」という言葉。
誰が?誰に?どんなときに?この言葉を投げかけるのか。
途中何度も、波に揉まれるように、進路を見失いそうになりながらも、最初のモヤモヤに立ち返るなかで辿り着いたのは、この言葉が、誰かが誰かのせいにするのに使われてしまっているということ。
子どもは親だけの力で育つわけじゃない。
ましてや、母親だけの力で育つわけじゃない。
いろんな人が、直接的にだけじゃなく間接的にも関わりながら、育つものだし、そうしたほうがいい。
「親として努力が足りないんじゃないか」なんて、すでに精一杯がんばってる母親に言わないで。
そんな責任の押し付けみたいな言葉を投げかける前に、自分にできることがないか考えてほしい。
対話前は「親とはなにか?」や「努力するってどういうこと?」といった問いがポイントになるかなと思っていたのですが、全然ちがいましたね。
「親として努力が足りないんじゃないか」という言葉は責任の押し付けであるという、言語行為論的な視点から、一気に靄が晴れた。
そんな対話でした。
こうやってモヤモヤの在処を見つけ、言葉にするお手伝いをすることで、こうした対話が一緒に子育てする人たちが手を取り合う助力になるといいなぁ。
そうなるよう、今後も試行錯誤していきましょう。