先週末、2月7日(日)は、岡山大学主催、医療者対象のオンライン哲学カフェでした。
テーマは「いのちって何?」。
がんの告知
自殺、安楽死
肉体の死/心の死
死=関係が突然絶たれること(転校に似てる)
思い出のなかで生きている
動植物のいのち/人間のいのち
アート作品に「いのちを吹き込む」
「選手生命」
さまざまな切り口から‥‥‥
- 自分のいのちは自分のもの?
- 「いのちを大事に」ってよくいうけど、どういう状態だったら大事にしてると言える?
- 死ぬのは悪いこと?
‥‥‥といった疑問が投げかけられるなか、大きな焦点となったのが、
- 「生きる/死ぬ」と「いのちがある/いのちがない」は同じか?
という問いでした。
「え、同じじゃない?」という人も少なくないなかで、おもしろいなとおもったのが、
「すでに死んでる魚について、“鮮度がいのち”って言いますよね」という指摘。
ここから、「アート作品に“いのちを吹き込む”」や「選手生命」といった言葉がどういうときに使われるか検討。
「“いのち”は、意味や価値があるときに使われる言葉では?」という意見。
しかし、その一方で、この考え方は優生思想につながる危険性や、自分が認識していないところにも意味や価値があることを指摘する声も。
また、妊娠・出産や食物連鎖など、「いのち」は個の生死を超えてつながるものではないかという見解も。
しかし、その一方で、病院で「いのち」といわれるときは個の「いのち」を指しているう気もする‥‥‥。もしそうだとすると、やっぱり「いのちがある/ない」と「生きる/死ぬ」は同義なのか???
どちらの論点からも、「いのちがある/ない」を「生きる/死ぬ」を同義として捉えるかどうかで、“いのち”が指し示す範囲も“いのち”に関わる問題もずいぶん変わってきそうだと感じさせられる対話でした。
どっちが正しいという話ではなく、どっちの捉え方をするかで見える問題が変わってきそう。
初めて参加された方からは、「アート作品のいのちや、他の動植物との連関のなかにあるいのちなど、ふだん医療現場で働くなかでは思いつかない方向から“いのち”について考えられて、驚いた」といった感想をいただきました。
テーマを決めたときは、わたしも「めずらしくがっつり医療っぽいテーマだな」とおもったのですが、実際に話してみるとおもった以上に、これまで扱ってきた他のテーマと同じように医療のことも話せるし医療じゃないことも話せるテーマだったんだなと気づかされました。
こんなふうに、ふだんとは異なる視点から“いのち”について考えてみることが、今後どう医療現場で役立つかわからないけれど、もしかしたら多様な死生観を理解する一助にはなる‥‥‥かも???
ご参加くださったみなさん、岡山大学さん、ありがとうございました。
次回の開催予定は5月ですが、その前にさんかく岡山さんとの特別企画があるので、そちらについてはまた改めてご案内させていただきます。