5月30日(日)は、岡山大学医歯薬学総合研究科主催の、医療者のための哲学カフェ。
医師、薬剤師、医学部生、医療事務の方などにご参加いただきました。
テーマは、地域の薬剤師さんからのご提案「いい行いをするのは誰のため?」。
「“いい行い”というからには、利他的な行為。自分のためだったら“いい行い”とは言えないのでは?」
「利他の精神って、どこからくるの?」
「社会のためも、結局、自分のためでは? 自分ってどこからどこまで?」
「誰かのためかということと、誰に気に入られたいかということって切り離せる?誰かに気に入られたいという気持ちからすることは、本当に“いい行い”といえる?」
「結果的に自分の利益になったら、それは“いい行い”にはならないの?」
「“いい”かどうかは、いつダレが判断するの?」
「起点(目的や意図)で判断するのか、結果で事後的に判断するのか?」
「罪悪感などネガティブな気持ちから行ったことでも“いい”っていえる?」
「“いい行い”は多いほうがいいのに、当たり前になると、“いい”とは感じにくくなってしまう」
などなど。
特に後半は、メモの赤丸あたりが掘り下げられたようです。
それが“いい”行いかどうか、いつ誰が判断するのか問題。
もし行為の動機が判断材料になる場合、「誰かに気に入られたい」だとか「罪悪感を感じたくないから仕方なく」といった理由で行われる行為も“いい行い”と言えるのかどうか。
それから、いい行いも重ねるうちに当たり前とみなされ、あることが“いい”というより、ないことが“悪い”と感じられるようになるのでは問題。
また、それとは別に、対話のなかでちらっとしかでなかったけれど、個人的に印象に残ったことも。
それが、「医療者という職業から、いい行いをする人だと思われてそうだけど、自分はそこまで立派な人じゃないという戸惑いがある」という言葉。
今回はおそらく医師の方だったかなと思うのですが、以前、看護師さんとの対話でも同様の戸惑いをきいた記憶があり、医療者にとってなかなか奥深い問題なのかもしれないと思いました。
回数を重ねると当たり前になっちゃう問題とともに、コロナ禍において医療者に過度な負担がかかっていないか考える際の、ヒントにもなりそうと感じました。
ご参加くださったみなさん、岡山大学医歯薬学研究科のみなさん、ありがとうございました。