先日6月28日(火)は高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。
(コロナ以降、ドリンクを出せないので「カフェ」じゃなく「トーク」)。
テーマは「なぜ認められたいのか?」。
これ、ここ何年かで1番、もしかしたらこれまでで1番難しいテーマだったかも。
このテーマ、こんなに難しいんだ!というのがこの日一番の発見でした。
文字通り頭を抱える人が出てくるぐらい難しかった!
その理由は、対話の中盤、私の「一つ一つの話はわかるんだけど、どうも迷子になってるから助けて」という呼びかけに応えてくださった方が教えてくださったとおり、「それぞれ思い描いている“認める”が違う」からなのでしょう。
存在を認められること、能力や才能を認められること、欲求を認められること。
どの話も理解はできるけれど、それぞれの「認められる」への関心をどう交わらせればいいのか‥‥‥。
しかし、振り返ってみると、それぞれの「認める」については、
- 「愛される」ことと「認められる」ことの違いと関係
- 社会的な変化(SNSの「いいね」ボタン、個人の能力のアピールが必要な状況)
- 「認められる」ことと「自分で自分を認める」ことの関係
といった点で、深い気づきを得られた時間でもあったようにも思います。
「愛されたくて認められようとしてるけど、本当は愛されることと認められることは違うのではないか?」
「誰かの強い承認欲求を前にしたとき、痛々しさを感じてしまうのはなぜか?」
などなど。
また、みなさんから「愛される」ことと「認められる」の違いや、「評価される」と「認められる」の違いについて聞くなかで、ふと、「愛される」とも「評価される」とも言えない、他にしっくりくる表現が見つからないときに、私たちは「認める/認められる」という表現を使いがちなのではないか、と感じたりもしました。
他にクリアな表現が見つからないときに、ふんわり「認める」という言葉を当てはめて凌いだ経験、ありませんか?
私にはあります。
ぼんやりとしていてはっきりした言葉で表現できないときにちょうどいい言葉だから、それぞれ思い描く「認める」がなかなか一致しないのかもしれません。
難しかったけれど、考え甲斐のあるテーマではあったので、またやりたいなぁ。