今日は、就労移行支援施設のフリーデザイン岡山へ。
哲学カフェをしてきました。
テーマを募ったところ、こちらの2つが提案され‥‥‥
それぞれの理由を聞いても、消極票を募っても、途中参加者が増えても、投票では同数で決着がつかず。
最終的に、コイントスで「障がいって何?」に決定。
でも、もう一つのテーマ候補「才能とは?」も
- 障がいも才能も人と違うという意味では共通する
- 障がいも才能も、個人的なものである一方で、社会的なものでもある
- ある特性を、「障がい」と呼ぶのと「才能」と呼ぶのと、どう違う?
と、大きなヒントとなりました。
「『障がい』と呼んだ方が得する場合は『障がい』を使って、『才能』と呼んだほうが得する場合は『才能』を使えばいいのでは」という自分の都合に合わせて選べばいいと考える人もいる一方で、「才能は、社会の都合で決められる」「社会や誰かにとって都合が良ければ『才能』と呼ばれ、都合が悪ければ『障がい』と呼ばれている」と、本人の都合ではなく社会や他者の都合でそう呼ばれてしまっているという指摘も。
「障がい」という言葉をポジティブに戦略的に利用してやろうという人と、それでもやっぱり「障がい」という言葉に抵抗があるという人、両方いたのがよかったなぁ。
両方の視点から「障がい」という言葉について考えるうちに、「分けすぎ問題」が発覚。
終盤は障がいを飛び越え、ハンセン病、コロナウイルス、言語、文化など、あらゆる事柄に通じる「何でもかんでも分けすぎ問題」について話し合う展開に。
多様性を認めることは大事だけど、何でもかんでも分ければいいってものじゃない。
多様性を認めることと、「分けすぎ」と感じることが矛盾せず両立するのはなぜか考えるなかで、
- 分けるという行為によって違いが強調されてしまう
- 分けっぱなしにするのではなく、分けたものをもう一度共にあるように包含する何かが必要では?
といった問題が指摘されました。
テーマについて考えるのが哲学カフェだけど、テーマについて考えるうちに、テーマの根っこにあるより大きな問題が発見されることもある。
そんな哲学カフェの醍醐味を感じられる時間となりました。