毎月第2火曜日は、宝湯で考える。
「宝湯」の愛称で親しまれる宝泉相生湯の2階での哲学カフェ。
最近は、お風呂であったまってからすっぴんで哲学カフェを楽しんでいます。
今月1月14日(火)のテーマは、「災害の近さと遠さ」でした。
実はこの宝湯の2階のお部屋、エアコンがなく、この時期は灯油ストーブが頼みの綱なのですが、会場にはいってみると、まさかの灯油切れ。
その寒さにちょびっと災害を近く感じてしまう、まさかの展開‥‥‥。
哲学カフェが始まって5分ほどで灯油が届き、ほっ。
いつもテーマは、一緒に企画している鑓屋さんが考えてくださることが多いのすが、今回はめずらしく、私の提案で。
カフェフィロの仲間でもある神戸大学の稲原美苗さんが「被災地をめぐる哲学対話」というシンポジウムを開かれるということで、その関連イベントとして「災害」関連の哲学対話を募集していたので、便乗してみました。
「近さと遠さ」をテーマにいれたのは、阪神淡路大震災から災害のたびに近く感じたり遠く感じたりするモヤモヤについて考えてみたかったから。
ところが、最初に、阪神淡路大震災、東北大震災、ここ何年かの大雨災害などで感じた
- 自分事として捉えられるかどうか?
- 「なにかしなきゃ」と思うかどうか?
といった論点ででてきたあと、1時間強、ぱたりと「近さと遠さ」の話題はとぎれる展開に‥‥‥。
しばし、いろんな角度から「災害とはなにか?」を考える時間が続きました。
- 災害に遭うのは運が悪い(→その人には責任がない)
- 災害とは、日常ががらりと変えてしまうもの
- その場所が危ないと知っていても、災害に遭ってしまうのはなぜ?
- 自業自得と災害は両立しうる?
- 公害も災害? 交通事故も災害?
途中、「そろそろ、近さと遠さの話にもどる? それとも、このまま災害とは何かを考える?」と声をかけても、しばらく災害とは何かに関するやりとりが続いていたので、いったん「近さと遠さ」について考えるのは諦めたのですが、あと30分足らずというところで、「災害に遭う=運が悪い(その人のせいじゃない)」説の人が「災害について近いとか遠いとか全く思ったことがない」ということが判明。
災害を近いとか遠いとか感じている私とでは、全然ちがう枠組みで災害をみていることがわかりました。
「災害に遭う=運が悪い(その人に責任はない)」説を唱えていた人は、「被災した人は運が悪いだけで、その人に責任のあることではない(自業自得ではない)。だから、そういう人には社会的なサポートや支援が必要だ」と考えている。
一方、私は、そういう社会的な視点ではなくて、被災地にいる知り合いの存在から災害を近く感じたり、「被災地に住んでるあの人が今どういう状況かわからない」「何かしたい気持ちはあるけれど、行けない」と遠く感じたり、とても個人的な関係性のなかで災害や被災地を近く感じたり遠く感じたりしていたような気がします。
さらに別の視点として、哲学カフェで他の方が話された、「ひとりひとりの具体的な姿がみえてくると、近さを感じる」という方もいました。
この共感から近さや遠さを感じるのと、関係性から近さや遠さを感じるのは同じでは?という声もありましたが、わたしが距離を感じるときの関係性という指標は、その方が指摘された共感できるかどうかという指標とはまた別のもののような気も‥‥‥。
この共感性の指標と、最初に「自分事として考えられるか」という視点が重なる方もいるでしょう。
しかし、「自分事として考えられるか」という視点から近さや遠さを感じる方のなかには、共感というより「自分も無関係ではない」という責任感や「自分もいつ被災するかわからない」という方もいそうです。
そんなこんなで夢中になっていたら、ちょっと時間をオーバーしちゃいました。
「災害とはなにか?」については、まだまだ語り足りない思いもありますが、ひとまず「近さと遠さ」という視点から、災害について両立するかもしれないけれど異なる視点がいくつか浮かび上がり、モヤモヤを整理するヒントになりそうです。
ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。