2月8日(土)は哲学カフェ尾道。
第2日曜が定例なんですが、今回は翌日広島でセミナー(カフェフィロとひろしま哲学カフェのコラボ企画)を開催するため、1日ずらしてもらいました。
テーマは、「他人をどこまで理解できるか?」。
「どこまで」という問いのかたちは、程度問題として語られると判断を掬うのが難しいので、あまり採用しないのですが、今回はマスターの問いかけに惹かれて採用。
コミュニケーションは大事。でも他人が何を考えているかは、わからない。まして完全に理解するなんて、とても無理そう。
では、全く理解できないかと言われれば、そんなこともない気がする。
ならば、どこまでなら理解できるのだろう?
逆に、自分のことなら、どこまでわかって欲しいですか?
たしかに、完全に理解できないと言い切るのは簡単だけど、まったく理解できないとも言い切れない。
その割り切れなさに向き合えたらおもしろそう!
参加者のみなさんからは、こんな視点がでてきました。
- 何を理解してほしいかというと、気持ち
- 同じ経験をしたわけでもないのに「わかる」と言われることへの違和感
- 「どこまで」を誰が判断・評価する?
- ちゃんと理解できているか、確かめようがない?
- 共感的な理解と「自分はそうは思わないけど‥‥‥」という理解のちがい
- 家族も理解できないという意味では他人
- 理解してほしい!を諦めるとラクになるのはなぜ?
- 理解してるフリやポーズはあり?問題
対話中も、「いまおっしゃったこと、どこまで理解できてるかわからないけど〜」といったやりとりや迷いが度々起こって、そのメタ対話感も楽しかった!
そして、もうひとつ今回の対話で興味深かった点は、「他人をどこまで理解できるか?」を考えているうちに、この問いについて考えたからこそ、この問いをはみ出す視点や問題が露わになってきたことではないでしょうか。
途中私が述べたのは「どこまで理解したいか」によって、「どこまで理解できるか?」の評価が変わってくるという点。
「理解したい」「理解してほしい」という気持ちが大きい場合は、まぁまぁ理解していても「全然理解できていない」と感じやすく、「理解したい」「理解してほしい」という気持ちが小さければ、ほとんど理解していなくても「けっこう理解できてる」と感じそう。
「どこまで理解できるか?」という問いの手前に「他者をどこまで理解したいか?」という問いが存在するような気がする。
参加者のみなさんのお話を聞いていても、「他者をどこまで理解できるか?」という問いをきいて思い浮かべる「他者」は不特定多数というより、大事な誰かだったりする。
そこからも、「他者をどこまで理解できるか?」という問いは、特定の理解したい/理解してほしい相手がいる場合に生じてくるものではと感じました。
そして、もう一方でとても印象深かったのが、「理解」の限界と別の可能性を示唆する発言。
理解できないからって、何もしてあげられないわけじゃない。
大切な人が苦しいとき、一緒にほっこりお茶を飲むとか、ただそばにいてあげるとか、理解以外にできることがあるはず。
大切な人だから理解したくなったり、理解できないもどかしさを感じたりするけれど、理解に拘るのをやめれば、もっとしてあげられることがあるのかもしれない。
さらに終盤、理解と行為の関係については、
食器洗いをして欲しいという私の気持ちを伝えているのに、食器洗いをしてくれない夫。
私の気持ちを理解していないから?
それとも、理解はしているけど行動しないだけ?
と、「欠如しているのは理解なのか?愛なのか?」問題も露わになります。
果たして、行為の有無からはかられるのは、理解の有無なのか愛の有無なのか?
おもいのほか、身近な大切な人たちとの関係に想いを馳せる対話となりました。
さて、次回の哲学カフェ尾道は特別篇。
4月12日にテーマの代わりに哲学書の言葉に触れ対話する「テツドク(哲読)」を開催します。
取り上げるのは、三木清の『哲学入門』。
私が14歳のとき初めて読んだ哲学書です。
この本を読んで、「そうか、私がいままでこっそりしてたことって『哲学』っていうんだ!」と知ったのですが、哲学カフェ尾道の営みもそんなふうに感じられるのかどうか、みんなで確かめてみましょう。
科学など他の知と哲学のちがいや、「真理の行為的意味」に関心ある方にもおすすめです。
本を読んでなくても持っていなくても参加できるイベントですが、kindleや青空文庫でも無料で読めるようです。
もし気が向いたら、どうぞ。