2月10日(日)は、antenna Coffee Houseにて哲学カフェ尾道。
今回は、哲学書の言葉に触れ語り合うテツドク!を開催しました。
いわば、テーマ代わりに哲学書について語り合う哲学カフェです。
今回扱ったのは、ミシェル・フーコーの『真理とディスクール』。
古代ギリシアの「パレーシア」という概念に注目し、真理を語るとはどういうことか、そして真理を語るという行為がどのように問題として認識されてきたかを歴史的に考察した講義の記録です。
- 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,中山元
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/09/01
- メディア: 単行本
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この本でテツドク!をしたいと思ったのは、以前こちらで「見て見ぬフリするとき、しないとき」というテーマで哲学カフェをしたとき。
「本当のことを言うには、本当のことだからこそ勇気がいる」という発言を聞いて、これはまさにパレーシアの問題じゃないか!と、みなさんとこの本を読んでみたくなりました。
パレーシアステースの真摯さを「証明する」のは、その勇気です。(真理とディスクール―パレーシア講義、p.14)
だれかがパレーシアを行使していると言われるのは、そしてパレーシアステースとして認める価値があると判断されるのは、真理を語ることで、その人がリスクを引き受け、危険を冒す場合に限られます。(真理とディスクール―パレーシア講義、p.16)
こうした「パレーシア」という概念に「これはまさに自分が職場で体験していることだ!」とポジティブに反応してくださる方もいる一方で、「真理とはなにか」ではなく「真理を語るとはどういうことか」を歴史的に分析するというフーコー独特の語り口に戸惑いを示される方も。
それぞれの疑問や感想を交え、それぞれの視点の意義を確認し、なんとかお互いの関心の交わる問いが見つかったのが、16時5分前。開始から2時間弱経過したときでした。
いつもの哲学カフェが2時間のところ、本の紹介もあるからと3時間いただいておいてよかった!
その問いとは、
人がパレーシアをしようと思うとき、その人の内面で何が起こっているのか?
リスクがあることを認識しつつ、それでもあえて真実を述べようとするのはなぜなのか?
みなさんとその答えを共有するところまではいきませんでしたが、
- 病いの告知をするかどうか
- マナー違反を注意できるときとできないとき
- 職場で他の人とは異なる意見を言うこと
- 嫁の立場からは言いにくいこと
- 地域住民の話し合い
- あとでこっそり「私もそう思います」と言われ、「みんなの前で言ってほしかった!」と思ったこと
- 自分の言葉が、相手の人生に影響を与えすぎてしまうことへの恐れ
などなど、参加者のみなさんがパレーシアしたりしなかったりした経験とその理由をうかがいながら、わたしたちの暮らしのなかにもパレーシアをするかしないかの選択を迫られることがたくさんあることに気付かされました。
そして、パレーシアには必ずリスクが伴う、リスクが伴わなければ真理を述べる行為であっても「パレーシア」とは呼ばれないわけですが、リスクの大きさは状況によって変わりうる。
とすると、パレーシアをしやすい社会とそうでない社会があるのではないか。
パレーシアをしやすい社会をつくるには、何が必要なのだろう?
パレーシアしやすい社会のために、何ができるだろう?
そんな問いを共有したところで、この日は終了となりました。
みなさんの話された内容はもちろん、この日みなさんが話される様子からも、改めて、言葉がもつ力というものを強く感じる時間でした。
ご参加くださったみなさん、antenna Coffee Houseさん、ありがとうございました。
次回の哲学カフェ尾道は、4月14日(日)。
テーマは「他人の不幸は蜜の味?」です。
詳細については、後日HPやfacebookでお知らせします。