哲学カフェのレポートもたまってるんだけど、
東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長の例の発言が、もし哲学カフェで出たら?
ということを考えはじめちゃったので、書いちゃいます。
個人的には、このニュースを読んで、「はぁ!? またまた、なに言うとん? こんなやつに会長やらせたらあかんやろ!」と思いました。
こんな人しか会長できる人がいないのなら、日本でオリンピックやらんほうがいいとも思ってます。(日本の選手のみなさんは日本でオリンピック実現してほしいだろうので、こんなふうに思うのも心苦しいけれど。)
でも、この森会長がしたような発言が哲学カフェでも出る可能性は十分あるし、
こういう発言がでる哲学カフェは悪い哲学カフェかというと、
必ずしもそんなことはないとも思うのです。
たとえば、地域住民のために公民館で開いてる哲学カフェで、地域住民として参加した森さんがそう発言するのは、全然ありじゃないでしょうか。
この場合の「全然あり」というのは「うれしい」という意味ではなく、「それぐらいの発言の自由は哲学カフェにあると思うよ」ということですが。
ただ、同時に、言いっ放しにさせちゃいけない発言だな、とも思う。
もし、その場に居合わせたら、あれこれつっこんできいてみたい。
「え、どうしてそう思うんですか?」
「わきまえるってどういうこと?」
「ちなみに、あなたのその発言はわきまえた発言ですか? そう思う理由は?」って。
個人的には、「たとえ内心そう思ったとしても、それは言わんほうがええと思うで」派ですが、
それはマツカワさん個人の考え方であって、哲学カフェの参加者がその考えに沿う必要はない。
しかしその一方で、進行役として看過してはいけないのではないか、と思わせる発言でもある。
それは、哲学が真理を探求するものだからであり、その真理には単に現状がどうあるかという事実だけでなく「どうあるべきか」という当為も含まれるからであり、さらにその場や自分自身ががどうありどうあるべきかというメタ的な真理も含まれるから。
哲学カフェが哲学的であるためには、そういうところがとても大事な気がする。
もちろん、看過してはいけないといっても、進行役が気づかずスルーしてしまうこともある。
人間だもの。
だからこそ参加者のみなさんの協力が大切で、
だからこそ参加者のみなさんの協力を促したりお願いすることが、
“てつがくやさん”の大切な仕事のひとつになりえるのだとおもう。
そして、「わきまえろ」というのと、協力を促すこととはちがう。
わたしも進行してるから、発言が予想より多く出すぎて会議の時間が伸びたら、焦っちゃう気持ちはわかる。
でもだからこそ、議題と時間と出席者数のバランスを調整したり(男女比の問題じゃなく、議題が多すぎたり時間が短すぎたり全体の出席者数が多すぎたりする可能性もある)、短い時間で多様な意見をきけるようにする工夫が必要なんじゃないの?
それができないなら、会議をとりしきる側が反省しなきゃいけないし、できる人に知恵を借りたり、協力してもらう必要があるんじゃないの?
その反省や協力をお願いすることすらもできないなら、会議をとりしきる側は降りて、いち出席者として発言したいことを発言するにとどめておいたほうがいいとおもうなぁ。