オンラインとオフラインを行き来したり、哲学ウォークのまた新しいヴァージョン(来週高校生とやる予定)を考えたりして、また、場所のもつ意味が気になり出しています。
オンラインで、以前なら気軽には会えなかった人と気軽に会える。
それは、間違いなくうれしい。
けど、だからこそ、そうした人とのつながりには還元されない場所のもつ力を感じてもいます。
たとえば、antenna Coffee Houseで、日常と非日常についての対話のなかから生まれた、コーヒーフロートの非日常性をめぐる探究。
マスターである山口さんが尾道に惹かれ、移住してこの地でお店を開くことを決め、古民家を改装した店内をコーヒーの香りと懐かしい音楽で満たす。
その空間を気に入ったお客さんが、「尾道にも哲学カフェを」と開かれた哲学カフェに参加するようになり、「せっかく尾道まで来たし」とコーヒーフロートを注文する。
「このお店、コーヒーフロートもあるんだ!」という雑談と、その日のテーマ「日常って、何?」が交差する。
「コーヒーフロートに非日常性を感じるのはなぜ?」という問いが生まれるまでには、いくつもの偶然が重なっているようでいて、全くの偶然というわけでもない。
場所には、私たちにそうするよう促す引力のようなものが働いている。
一方で、なにかしらの引力が働いているその場所に、私たちはちょっとした奇跡を感じもする。
それは、どの「ここ」もそこにしかない唯一無二のものだからだ。
場所は分散して存在することができない。
だから、「そこにいた」ということ、とりわけ何かや誰かと「居合わせた」ことは、常に希少性を帯びた出来事となる。
尾道のあの坂道の麓にあるantenna Coffee Houseというあの場所で、ある日、コーヒーフロートと「非日常とはなにか」という問いと私が居合わせた。
あの日の尾道の空気、コーヒーの香り、音楽と混じり合う食器の音、明るすぎない室内を賑やかす参加者たちの服の色、グラスを伝う水滴とともに。
そこでコーヒーに溶け出すアイスクリームを眺めながら展開された非日常性の探究は、いまここでコーヒーフロートの写真を見ながら巡らせる考察とは、全く異なる味わいをもつ。
たとえ、その考察内容が全く同じだとしても。
哲学対話での探求は、常にこのような「居合わせ」とともにある。
以下、「場所」関連で気になる本。