偶数月の第2日曜日は、antenna Coffee Houseで哲学カフェ。
6月10日(日)のテーマは、「"見て見ぬフリ" する時、しない時」でした。
「"見て見ぬフリ"について考えてみたい」というマスターの要望を受けて、提案させていただいたテーマでした。
当日初めて、「勇気」について考える切り口としての“見て見ぬフリ”だったことを知りました。
交通や職場でのルール違反、鼻毛や歯についた青のり、スカートやズボンのチャック、猫の糞に動物の死骸、いじめ‥‥‥
さまざまな例から、見て見ぬフリするとき、しないとき、したほうがよいとき、しないほうがよいとき、それぞれの理由が挙げられました。
なかには、マスターがテーマの動機としてあげた「勇気」に関する意見も。
見て見ぬフリしない勇気もあれば、見て見ぬフリする勇気もあるという指摘がでました。どうも、私たちはリスクを引き受けて何かを実行することに対して、勇気があると感じるようです。
しかし、見て見ぬフリするかどうかの判断に関しては、「面倒臭くて見て見ぬフリすることも」「相手との関係にもよる」と、勇気以外にも様々な理由が複雑に絡まっていることが明らかになるばかりで、「これ」といった決め手は見つかりません。
そんななか、おもしろい発見がありました。
それは、「動物の死骸を見つけたら、どうする?」という話題のとき。
「面倒くさくて見て見ぬフリしちゃう」という人の声をきいて、別の人が、「私は見て見ぬフリすらしない」と言いました。
前者は自分がそれを片付けるという選択肢が思い浮かび、幾分の心苦しさ、罪悪感を抱きながら見て見ぬフリするけれど、後者はそもそも自分がそれを片付けるという選択肢が思い浮かばない、見てただ通り過ぎるだけだと。
たしかに、そういうこと、あります。道端に落ちたゴミを拾うという発想すらなく通り過ぎてしまうとき、自分以外の誰かがやるのが当然と思い込んでいる家事など。
そこから、「そもそも、見て見ぬフリするときと、見て見ぬフリすらしないときはどうちがうか?」についての考察が展開されました。
哲学カフェが終わったあともこの問いについて考えながら帰ったのですが、交通について“見て見ぬフリ”が発生しやすいのは、と交通ルールが細かく明確に決まっているからなんでしょうね。
その他にも、あるルール違反について見て見ぬフリするかどうかで意見が真っ向から対立したり、「見て見ぬフリするんじゃない。見て見てるんだよ」という言葉が出たり、興味深いシーンがいくつか‥‥‥
初めてのテーマでしたが、哲学カフェにぴったりのテーマでした。
ご参加くださったみなさん、antenna Coffee Houseのマスター、ありがとうございました。
さて、次回の哲学カフェ@尾道は8月12日(日)。文学篇です。
哲学カフェ尾道・文学篇 第2弾 『富良野塾起草文』(倉本聰)
富良野塾の起草文を詩として味わい、感想を語り合いながらこの詩から浮かび上がる問いについて考えましょう。