今日は、スロウな本屋さんのフレデリック・グロの『歩くという哲学』を読むオンライン読書会に参加しました。
月に1回、何章かずつ読み進めているようで、単発での参加もOK。
3〜5月のあいだ、哲学ウォークを行う機会が多く、歩くこととが哲学することとどう関わるか、歩くことが哲学することをどう促すのか、考えてみたいなぁ、と思っていたんです。
ちょうどそんなとき、この読書会のことを聞き、とりあえず本を購入。
それが、3月のことだったか、4月のことだったか。
しばらくタイミングが合わずにいましたが、ようやく参加できました。
今回は、「憂愁に満ちた彷徨(ネルヴァル) 」から「なぜわたしはこんなによい歩行者なのか(ニーチェ)」まで。
「いつも、いつも、そうやって何かをしているけれど、存在はしているのだろうか?」(p.105)という言葉にどきっとしたり、ニーチェの人生にちょびっと共感したりしなかったりしながら、本を読み、読書会では、お互いの「歩く」経験も交えながら一緒に読むことで、特に、「言語の消失」とはどのような状態かと、「触れる」でも「つかむ」でもない「撫でる」という知のあり方とはどのようなものかについて、示唆を得ることができました。
この時間自体が、さまざまな経験や言葉を、ゆっくり撫でることで理解を深めていくような、そんな時間でした。
そもそも哲学というものが、どういうタイプの知か(そして、どういうタイプの知ではないのか)というヒントも得られて、うれしい。
フランス語の原書も、欲しくなっちゃった。(たいして読めないけど、ここは原書では何て書かれてるんだろう?と気になったところが、ちらほら。)
次回は、先約と重なってて参加できなさそうだけど、ご関心のある方はぜひ。
8月か9月に、わたしもまた参加できるといいなぁ。
そして、10月26日(日)には、この本のなかの言葉を拾って、哲学ウォークをする予定です。
『歩くという哲学』のなかの言葉とともに歩いて哲学する。どんな時間になるんだろう?