昨日6月16日(日)は、岡山大学病院(医学部)で、医療者や医学生を対象とした哲学カフェの第3弾でした。
テーマは「理想の死ってある?」。
「死」をテーマにしてみたいと要望があったのですが、人の死に触れる機会が通常より多い方が対象なので、なにか切り口がほしいな、と。
「理想の死」なら、医療者としてだけでなく自分ごととしても「死」について考えやすいのではとおもって提案させていただきました。
結果、こちらの「医療者」に対する思い込みが見事に打ち砕かれるほど、ヴァリエーションに富んだ視点が出てきました。
突然死ぬほうがいい?死までに準備期間があったほうがいい?
自分にとっての理想の死と、家族にとっての理想の死はちがう?
自殺しちゃいけないって本当?
大事なのは、死ぬまでのプロセス?それとも死んだあと?
死はこわい? こわいとしたらなぜ? こわくないとしたらなぜ?
死ぬときの痛みや苦しみ? 忘れられること? 生まれ変わるのがこわい?
死んだらどうなる? 無になる? 生まれ変わる?
死んでも覚えてくれてる人がいれば、存在してる?
親しかった人が死んでもそばにいる気がするのはなぜ?
理想の死のためには、よく生きることが必要?
常に死を意識して生きるのはなぜ難しい?
生きる意味とは?
一番多くの時間が割かれた亡くなった方との関係性、「第二の死」に関する話題も大変興味深かったのですが、輪廻転生の話や、死んだ身近な人がそばに(あるいは自分と一体化して)いるような感覚について、大学病院で医療に携わる/学ぶ人たちと話せたのが、予想外でワクワクしました。
「死んだら無になる」というのも、「死んだら生まれ変わる」というのも、互いに正しいともいえないけれど、間違っているともいえない。
どちらも証拠はないんだけれども、それぞれに、確信に近い実感をもっているというのが伝わってきました。
医療者というのは、きちんとしたエビデンスに基づいて判断することが求められる一方で、エビデンスを超えた死生観をもって生きている患者さんやご家族と接する職業でもありますよね。
医療者のなかにもそういうエビデンスを超えた死生観がある、自分と異なる死生観をもっている人がいるという実感が、なにかしら患者さんと接する際に役立つのではないかな、役立つといいなと思いました。
それから、親しい人が亡くなる過程で、その人と一体化していくような感覚についても。
死というのは、大事な人と自分とを分かつ、個人が個人であることを否応なく実感させられる出来事だと思っていましたが、必ずしもそうではない。
死によって個人という単位が揺らぐこともあるのだと、今回の対話を通して初めて気づかされました。
ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
追伸
今回の対話のなかで話題にでた『リメンバー・ミー』。
これまでノーマークだったけど、気になってきました。今度、観よっと!