てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「性教育はなぜむずかしい?」@大元公民館

ひきつづき、大元公民館の子育てモヤっとニコッとカフェ のふりかえり。

 

5月は、コロナの影響でスキップ。

6月は、22日(火)に“さんかくウィーク”こと男女共同参画ウィーク特別企画として、みんなで語ろう!「性教育はなぜむずかしい?」を開催しました。

これも、前年度の「モヤモヤを出し合おう!」会で出てきたテーマです。

 

最初に、ひとりずつ

を出し合い、松川からもちょこっと性教育について情報提供し、「LGBTQのQってなに?」といったご質問に答えしたあと、みんなで対話。

 

性教育ってどんなのかというイメージすらほとんどないかも。うっすら小学校高学年のときに女子と男子で教室を分けてビデオを観た覚えはあるけれど‥‥‥」

「自分もちゃんと受けてきていないから、子どもに対してもどうしていいのかわからない」

「女らしさ、男らしさについては、親の私のほうが囚われてるかも。子どものほうが多様性を当たり前のものとして受け入れてる」

「自分たちが子どもだった時代より、ネットを通していろんな情報が入ってくるけど、どうしたらいいんだろう?」

「子どもとなんでも話せる関係でいたいと思ってるのに、欲望などプラバシーに関わることはむやみに話したり見せたりすべきではない気もする」

 

などなど、それぞれの悩みや戸惑いについて話すなかで、

  • 正しい情報とそうでない情報を見分ける情報リテラシー
  • 自分を大切にすること
  • 他者を尊重すること

といった、性に限らず生きる上で大切なこととして伝えられそうなことがあるという気づき。

そして、それでも残る性に特有な事柄はあるのか? あるとしたら、それはなにか?という問いが残りました。

この問いについては、人によって答えも分かれそうだし、また改めてじっくり考えてみたいな。

 

【おまけ】

今回の企画のためにちょっと調べてみたら、今年4月に「生命(いのち)の安全教育」(対象:幼児〜大学生)なるものができたんですね。知らなかった。

文科省のサイトに対象年齢別のスライド資料もありました。

ご参考までにどうぞ。

www.mext.go.jp

 

「自己肯定感って?」@大元公民館

ずいぶん長い間、書きかけのまま下書き保存されてるレポートがたまってしまっています。

今日は、3ヶ月ぐらい時を遡って‥‥‥

4月23日(金)に岡山市立大元公民館主催で開催された、子育てモヤッとニコッとカフェをふりかえります。

 

 

この日のテーマは、「自己肯定感って?」。

前年度に、「モヤモヤを出し合おう!会」のモヤモヤから生まれたテーマ。

「自己肯定感ってなに?」とすることも「自己肯定感って必要?」とすることもできたんですが、あえて限定せず「〜って?」にしてみました。

 

「自己肯定感が高いな〜」と思うのはどんな人?

自己肯定感は高ければ高いほうがいい?

「私、自己肯定感が低いんです」ってどういうこと?

なぜ子育てをしていると自己肯定感が気になるの?

だれがだれを肯定するの? 理想の自分が現実の私を?

その理想は本当に自分の理想? 周囲の理想?

自己肯定感の反対は? 自己否定感? 他者否定感?

回復力(レジリエンス)と自己肯定感の関係は?

 

などなど話し合うなかで、特に強く印象に残ったのが、誰かの自己肯定感を高めるために、別の誰かの自己肯定感が損なわれるような事態が起こっているのでは?という指摘。

 

子どもの自己肯定感を高めようとがんばればがんばるほど、「どうしてうまくできないんだろう」と自分自身の自己肯定感が損なわれてしまったり。

ある子の自己肯定感を高めようとするあまり、別の子のことを悪く言ってしまったり。

「自己肯定感が大事」ときいて、「私って、自己肯定感が低い。こんなんじゃダメだ」と焦ってしまったり。

 

きちんと大学などで専門家から「自己肯定感」について学んだという人はそんなこともないようですが、「自己肯定感」という言葉が一人歩きするなかで、「自己肯定感を大事にしよう」という言葉によって、その言葉が意味するところとはとは裏腹に、「自己肯定感」という言葉が誰かのプレッシャーや負担になり、誰かの自己否定感が蓄積されていくような事態が引き起こされてしまっている。

 

対話の前は、「自己肯定感って哲学カフェの参加者からもよく聞くけど、なんでみんながそんなに気にしているのか、自己肯定感ってなんなのか、よくわからないな〜」とちょっぴり不思議に思ってた私でしたが、この発見によって、自分のなかにも「自己肯定感」に関するモヤモヤがしっかり溜まっていたことと、そのモヤモヤの正体に気づかされました。

 

子育てにまつわる哲学カフェの魅力のひとつに、一般的に子育てにおいて「大事」と言われていることをちょっと疑ってみることができる、ということがあると思うのですが、この回は特にそのよさが出た対話だったと思います。

 

みなさんも、自己肯定感というモノサシの濫用にはご注意を★

 

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大事にしないは、大事にすること?〜ある日の交差点ワークより〜

昨日のオンラインセミナー「対話の地図の描きかた」では、コミュニケーション迷子の原因と対策についてお話ししたあと、思考の交差点ワークを実施。

そのなかで、先日書いた「論理は破綻しない」派のわたしにとって、うれしい出来事がありました。

 

ワークのお題として、こちらの絵本から‥‥‥

 

 

「どんなときでも、みんなを大事にすべき?」の答えをそれぞれ選んで、その共通点と相違点を探ることになったんだけど、そのなかで「どろぼうとか悪い人は大事にしない」を選んだ人と「無理。だってみんなを好きになれないもん」を選んだ人の共通点として、「傷つけてしまう可能性があるから近づかない」「近づかないのも大事にすること」が見つかったのはおもしろかったなぁ。

 

「大事にしない」「無理」って言ったのに、矛盾してるやん!

論理、破綻してるやん!

‥‥‥と捉えることもできるけど、論理は破綻しない派のわたしとしては、この捻れたつながりが興味深い。

だって、ここから「大事にするってどういうこと?」と掘り下げっていったら、なんかおもしろい発見がいろいろありそうやん。

 

そして実際、このあと、「無理。だってみんなを好きになれないもん」を選んだ人の考えと「うん。みんなが自分らしく好きなことできるように」を選んだ人の考えが反対じゃなく裏表の関係にあるという発見につながったのでした。

 

同じ問いと答えでも、人が変わればまたちがった考えが見つかるだろうので、これが正解ってわけじゃないけれど、一瞬「あれ?矛盾してる?」と思っても、間違ってると決めつけないで、論理の系を辿っていけばおもしろい発見につながるよ、という例でした。

 

ご参加くださったみなさん、素敵な発見をありがとう!

 

matsukawaeri.hatenablog.com