てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

論理は破綻しない

最近、時間的にも精神的にもちょっと落ち着かない日々が続いていて、全然活動レポートが投稿できていませんが、昨日の質問レッスンで気づいたことを備忘録。

 

 

昨日の質問レッスンで、「論理は破綻したりしないから、大丈夫」と自分の口から出てきたのをきいて、気づいた。

わたし、論理を重視しないタイプの哲学者だとおもってたけど、ちがったわ。

むしろ、めちゃくちゃ論理を信頼してる。

信頼が厚いあまりに、「論理は気にしなくていい」って言ってるタイプの人でした。

 

論理って、組み立てるものだと思ってる人にとっては、破綻しないように気をつけないといけないものかもしれない。

けれど、どうも、わたしは、論理は組み立てるものじゃなく発見するものだと思っているらしい。

ということも、論理を組み立て考えたわけじゃなく、自分が何気なく放った言葉から論理をたどって気づいたのだけど。

 

論理は発見するもの。

だから、見えないことや見間違うことはあっても、破綻することはない。

わたしの思考のなかにも、たぶん、まだわたしが気づいていない論理が埋まっていて、誰かに発掘されるのを待っている。

 

「ああ、なんか論理の飛躍や矛盾があるとおもったら、この論理が見えてなかったからなのね!」と。

 

矛盾や飛躍は、見えないなにかの存在に気づかせてくれる。

それが何なのか、すぐにはわからなくても大丈夫。

いまはまだ見えない何かが、そこに存在している。

そのことさえわかっていれば、手探りしながら探り当てることができる。

 

ところが、論理を組み立てようと一生懸命になりすぎると、矛盾や飛躍はあってはならないと、その見えない何かを理屈で覆い隠してしまう。

「論理的にはこうなるはずだ」と。

それが真理とは限らないことは、知の歴史が物語っている。

 

コペルニクスが、なぜ地動説を発見できたか。

天動説の穴を、「そんなはずはない」と言って既存の理屈で覆い隠してしまったりしなかったから。

「ここになにか、まだ説明のついてない穴があるな」とそのまんま受け止めたからだ。

 

それが何なのかすぐにはわからない、論理の窪みのようなもの。

そこにまだ見ぬ真理が潜んでいる。

 

 

 

※質問レッスンが気になる方は、以下のイベントページへどうぞ♪

p-question0801.peatix.com

 

 

「感覚がちがうとイライラするのはなんで?」@フリーデザイン岡山

今日は、フリーデザイン岡山へ。

午後組のみなさん+オンラインの参加希望者と一緒に、哲学カフェをしてきました。

午後組は、前回がコミュニケーション哲学カフェだったので、今回は縛りなしのプレーンな哲学カフェです。

 

参加者から、こんなテーマ案がでてきました。

  • 人にはなぜ好き嫌いがあるのか?
  • 伝わる/伝わらないってどういうこと?
  • 友だちと親友の境目は?
  • 感覚がちがうとイライラするのはなんで?
  • あきらめるってなんだろう?

 

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豊作!

どれもおもしろそうですが、シンプルに話してみたいテーマに挙手してもらったたところ、「感覚がちがうとイライラするのはなんで?」が圧倒的人気だったので、今回はこれについて話すことに。

 

におい、トイレの蓋を開けておくかしめておくか、整理整頓、コロナウィルスに対する危機感のちがいなど、感覚の違いでイライラしたことだけじゃなく、びっくりしたこと、ヒヤヒヤした経験、反対にイライラさせちゃった経験なども交え比較しながら、考えました。

 

場合によっては、「感覚がちがうってどういうこと?」についてもあれこれ考えられそうなテーマですが、今回は、

  • イライラってなんだろう?
  • イライラとヒヤヒヤのちがいは?(ヒヤヒヤは危険センサーで、イライラは心地よさセンサー?)
  • イライラに対する対処法は?(原因をなくす、逃げる、理解する、あきらめるetc.)
  • イライラするってわるいこと?
  • イライラしてる人を見るとイライラするのはなんで?

というふうに、イライラについていろんな方向から切り込む展開となりました。

 

また、イライラに対する対処法の一つとしてあがった「あきらめる」についても、

  • 諦めたらイライラはなくなるのか?それとも緩和されるだけ?
  • 何かを諦められるときに、何が起こっているのか?
  • 理解することは諦めるの反対?それとも諦めるに至るプロセス?

と、あれこれ考えることができました。

まさかこのテーマから、もう一つのテーマ候補だった「諦めるってどういうこと?」について迫ることになるとは!

 

上記の問いを行きつ戻りつして考えたなかで、特に印象的だった発見をいくつか書き残しておきましょう。

  • イライラは心地悪さを知らせてくれるセンサー
  • イライラを感じること自体は悪いことではない
  • イライラを感じなくなることは不可能だけど、イライラへの対処法がたくさんあることを知っていれば、イライラを緩和・解消することはできる
  • イライラしちゃった人とイライラさせちゃった人の相互理解をとおして、どちらか一方がもう一方を我慢させるのではない解決法が生まれうる
  • 諦められないから「なんで?」と思うけれど、「なんで?」をきいた結果、理解できればイライラはなくなる。それを「諦めなかった結果理解できた」と捉えるか、「理解できた結果諦めることができた」と捉えるか???

 

テーマを提案してくれた方からは、「自分だけがイライラしてるのは人間が小さいからかなと思ってたけれど、みんなもけっこうイライラすることがあるんだなとわかって、ほっとした」という感想も。

たしかに、イライラを見せると相手もイライラするからと思ってイライラを見せないようにしていると、お互いのイライラに気づかず、「自分だけがイライラしてる」と誤解してしまいそう。

 

イライラに関する探究をとおして、共にいるとはどういうことかについても考えさせれる対話でした。

 

対話のなかでも指摘してくださった方がいましたが、コロナウィルスの影響で、以前より個々人の感覚のちがいに敏感になるシーンが多い昨今。

よかったら、みなさんも、上記の発見をヒントにしていただければ幸いです。

 

イライラというセンサーをヒントに、感覚の異なる人たちが互いに心地よく過ごせるあり方を探してみましょう♪

 

理由をきく質問は、なぜ難しい?

先日、質問レッスンで、質問ワークをふりかえるなかで、こんな感想が参加者から出てきました。

 「理由をきく質問をするのは、なんとなく躊躇してしまう」

なぜでしょう?

 

ぱっと思いついたのは、「なんで?」「どうして?」という言葉は相手を責めたり反論したりするのにも使われる言葉なので、そのせいかな、と。

例:「なんで遅刻したの?」

 

しかし、どうもそれだけではなさそう。

別の参加者から出てきたのは、こんな言葉。

「理由をきく質問は、本当に知りたいと思ってないと、出てこない」

なるほど。

なぜなぜ星人(一生、なぜなぜ期)のわたしには思い浮かばなかったけれど、たしかに思い当たることがある。

質問レッスンでも、誰かの心の底から「知りたい」「理解したい」という気持ちが溢れ出したときは、理由をきく質問もよく出る気がする。

 

じゃあ、心の底から「知りたい」「理解したい」と思う場合と、思わない場合、何がちがうんだろう?

そんなふうに考えて、ひとつの仮説に行きあたる。

 

変わる気があるかないか、じゃないか。

 

考えてみれば、理由をきくという行為は、自分の行為を変える気があるときにしか出てこない。

たとえば、昼ごはんどきに家族から「うどんがいいな」と言われた場合。

「えー、やだよ。ラーメンにしようよ」と反論をぶつけるときは、自分を変える気がない。相手を変えようとしている。

「いいね、うどんにしよう!」という場合は、そもそも自分を変える必要がない。だから理由を聞く必要もない。

理由をききたくなるのは、「わたしはラーメンの気分だけど、理由によっては、うどんもありかも」って場合だけだ。

 

理由が「体調が悪いから、あっさりしたものがいい」だったら、「じゃあ、体調が悪いほうに合わせてあげるか」と思うかもしれない。

「最近、うどん作りにはまってるから、つくったるわ!」だったら、「え、無料で手作りうどん食べてるなんて、ラッキー♪」と思うかもしれない。

「新規開拓したいから、新しくできた讃岐うどんの店に行きたい!」だったら、どうだろう?

「え、どこどこ?わたしも行きたい!」となる場合もあれば、

「新規開拓には賛成だけど、だったら、新しくできたラーメン屋にしない? わたし、今日はこってり気分なんだ」という場合もあるだろう。

 

 

理由を尋ねるという行為は、必ず自分の選択や判断が変わるかもしれないという可能性を含んでいる。

実際に変わるか否かはどっちでもいい。

その可能性を含んでいる、ということが重要なのだ。

 

一切変わるつもりがないのに理由を尋ねるなんて、相手にとっても自分にとっても、時間と労力の無駄遣いだもの。

 

 

哲学(philosophy)の語源は「知を愛する」と言われるけど、変わることを恐れているうちは、知を愛することも難しいのかもしれない。

「知を愛する」の「知」とは、決して机上の空論ではない。

その知が真理に近ければ近いほど、普遍的であればあるほど、わたしたちは変わらざるをえない。

 

相手から出てきた理由に説得力があれば、わたしたちは変わらざるを得ない。

だから、理由をきくのは、勇気がいる。

 

 

けど、ご安心ください。

それは決して「変わらなければならぬ」ということではありません。

相手の理由を理解したからって、自分の考えを手放す必要はない。

「新規開拓には賛成だけど、それならラーメンでもいいんちゃうん?」と思ってもいいし、

「新規開拓なんてせずに、せっかくお金を払うんだから確実に美味しい店に行きたい!」と思ってもいい。

 

変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

だから、理由をきくのはおもしろい。

 

理由によっては、うどんもありかも?

そんな軽はずみな仕方で「理由によっては、その考えもありかも?」と考えてみる。

その可能性を担保しておくだけで、お昼ご飯の可能性も、自分自身の可能性も広がるのです。たぶん。