まつかわえりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川絵里のブログです。

自分の限界を楽しむ!〜私が哲学対話をする理由〜

てつがく仲間のSさんに、「哲学対話をする動機や理由は?」とご質問いただきました。
 
 
 
自分や自分が拠って立つ思考の限界を知りたい。
まずこれが、本を介してであれ、対話を介してであれ、哲学する動機としてあります。
ソクラテスの「無知の知」、カントの「批判」、愛するミシェル・フーコーの「考古学/系譜学」などに共通して感じる哲学の魅力です。
そして、対話全般が好きなわけではなく、哲学の一種として哲学対話を楽しんでいます。
 
そのなかで、本ではなく対話を介した哲学をする理由をあげるなら、以下の2点でしょうか。
 
1)同じ社会に生きる人たちと現実に基づいた哲学ができる
机上の空論になっていないか。
過去や海外の哲学者の思想が、私たちの暮らしにどれぐらい通用するのか。
互いの思考や言葉が、どれぐらい通じたり通じなかったりするのか。
こういったことを確認するには、本より対話のほうが向いている気がします。
 
2)自分が関心のないことにも巻き込まれる
本だと自分の関心あるものしか読みませんが、対話だと、目の前にいる人から全然関心のなかった事柄や論点が飛び出します
戸惑うことも多いですが、この戸惑いこそが、自分の認識や思考の限界に気づかせてくれる。
いつも「哲学カフェの目的は議論そのものを楽しむこと」と説明してますが、正直、テーマとの関連や重要性が見えにくいときは、「楽しい」と感じるのが難しい場合もあります。
しかし、そこをあえて積極的に「楽しもう」とすると、相手と関心の接点が見つかり、それまで見えていなかった何かが見えてきます。
「楽しむ」を「味わう」に置き換えることもできますが、その接点を見つけるには能動的な姿勢が必要なので、あえて「楽しむ」という言葉を使っているのかもしれません。
 

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哲学カフェって何?©2017 松川絵里
 
私にとって、「哲学対話を楽しむ」とは、「自分の限界を楽しむ」と同義です。
 
「自分の限界なんて見たくない」という人もいるかもしれませんが、限界は、見なくてもある。どんな人のなかにも。
でも、その限界を見ることができれば、地平線に近づいてみるように、新たな景色が見えてきます。
そしたらまた、新たな限界が現れるだろうけど。笑
 
そういえば、ときどき「視野を広げるにはどうしたらいいですか?」てご質問いただくんですが(私のようないろんな意味で小さな人間が、そんなご質問をいただくなんて恐縮ですが)、もしかしたら、これがその答えかも。
自分の限界を見ずに、視野を広げるって無理な気がする。
 
 

 自分が何を知らないかを知ること、「無知の知」がどうphilosophy(philo sophia=知を愛すること)にどうつながるのか知りたい方は、こちらをどうぞ。

学生のころ集中講義で「ソクラテスって、意地悪な奴じゃないんだ!」と私に教えてくださった納富さんの訳です。

ソクラテスの弁明 (光文社古典新訳文庫)

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