何ヶ月前かなぁ。
とあるお得意さんとの打ち合わせで、こんなことを言われた。
私はそのお得意さんに「えっちゃん」と呼ばれているのだけど、
今日、えっちゃんに会うって思ったら、
そう思っただけで、会って話をする前に、
ずっと悩んでた問題に答えが出ちゃったんですっ!
きいた瞬間、「そんな魔法みたいな話あるかいっ!」とツッコミかけたけれど、落ち着いて考えてみると、ありえない話じゃない。
わたしも迷ったとき、
「(お世話になった哲学の)先生なら、どう考えるだろう?」
って考えるもの。
ちなみに、私には哲学の恩師が少なくとも3人いるので、3パターン思い浮かべます。
「ソクラテスなら、なんて言うだろう?」
「フーコーなら、どうするだろう?」
なんて考えたりもする。
たぶん、哲学者と出会うということは、そういうことなのだ。
そのお得意さん曰く、ポイントは、感情ではなく、理性で論理的に考えてその答えに辿り着いたということらしい。
理性を働かせるといっても、様々な働かせ方がある。
が、その人が出した答えと答えの導き方は、「たしかに、わたしだったらそう言うわ」というもので、逆にそれをきいたこちらが「わたしって、いつも、こういうふうに理性や論理を使っているのか」と気づかされたのでした。
自分が最初に何気なく言ってた言葉に遡って、
なぜ自分がそう言ったのか、
そのときに何をしたかったのかを掘り起こしてみたら、
解決しなきゃと思っていた問題はそもそも本当の問題じゃなかった。
自分は本当にやりたかった方向にちゃんと進んでいるということがわかった。
そんな感じ。
最後の本当にやりたかった方向に進んでいるかどうかは、ケースバイケースだけど、自分が何気なく言った言葉の意味を(辞書的な定義ではなく)自分のなかに探してみたり、そもそも何がやりたかったのかを立ち返ってみたり、だいたい私の思考はそうやって、積み木を積み上げるような感じではなく、地面を探りながら掘っていくような感じで(かっこよく言えば遡及的に?)進むことが多い。(論理を積み上げる派の人は、どういうふうに哲学対話してるんだろう?)
「「何気なく言ったこと」や「何をしたいか」は論理的じゃない、感情だ」と思う人もいるでしょう。
けど、「何気なく言ったこと」や「何をしたいか」にも、探ればちゃんと理由はある。
それを指先で糸を辿るように辿っていくと、案外、論理的だったりするものだ。
逆に、「何をしたいか」とその理由が論理の糸でつながっていないのなら、「何をしたいか」、もしくはその理由っぽく見えていたもののどちらかを、取り違えている可能性がある。
紛い物のしたいことや、紛い物の理由を取り除くために、論理の糸を辿る。
論理は、「何をしたいか」を蔑ろにするためのものじゃない。
論理を、「何をしたいか」を駆逐するためには使わない。
今後もいろんな哲学者(もちろん哲学対話の参加者含む)からいろんな影響を受けるだろうけれど、そういう哲学の使い方は続けていきたいなぁ。