4月6日(木)の午後は、ぬか つくるとこへ。
自由でアーティスティックな人が多いので、話してるうちに誰もいなくなっちゃう可能性もあるな〜ぐらいの覚悟で行ったのですが、蓋を開けてみれば、思いのほか最後までおつきあいくださる方が多くて、そして、とても哲学度の高い時間になって、びっくりしました。
午前のうちにたーっくさん用意してくれてたテーマ候補のなかから、「松川さんが選んでいいよ」と言ってもらったけれど、魅力的なテーマが多すぎて目移りして絞りきれず。
いくつかに絞ったなかから、みなさんに投票していただいた結果「人の心はどこにあるのか」に。
対話がはじまってすぐ、このテーマの素晴らしさに気づかされました。
「どこにあるのか」の答えを、言葉だけでなく、身振り手振りで「ここ」って教えてもらえる。言葉で説明するのが得意ではない人にも、参加してもらいやすい。
頭(脳)、胸、お腹、手のひら、全身全細胞、歌のなか‥‥‥
「中古車には前に乗っていた人の念が残ってそう」、隣に座っている人を指して「この人」と答える人も。
そうか、自分の心は自分のなかのどこかにあると思い込んでいたけれど、そうとも限らないのか。
そんなふうに気づかされて、さらにきいてみる。
「心がある」ってどういうことだろう? 「ここに心がある」って感じるとき、何が起こっているんだろう?
「心って自分のなかにあるというより、感情の働きだから、人と人、人とモノのあいだにあるのでは?」
「意志と記憶。そこに心がある。」
「幽霊とか生き霊とか、自分の意志じゃない念が心だと思う。」
みんなの多種多様な説にじっくり耳を傾けたあと、こんなふうに筆談で発言してくれる人も。
それに刺激されて、また疑問が浮かんでくる。
共通の心って、どんなだろう?
体験はそれぞれちがうのに、言葉が通じるのは共通の心があるから?
私たちは何を共有できて、何を共有できないんだろう?
そんな問いが新たに浮かんだところで、時間切れ。
でも、心に関する問いから、こんな問いにたどり着くなんて。
これが正解!って言えるわけじゃないけれど、思考は進んでないわけじゃない。
見える景色が変わる。見えなかったものが見えてくる。
メルロ=ポンティの言葉どおりの時間になったなぁ。
「念」説、「意志と記憶」説、「あいだ」説、「言葉と心」論を展開した4人が大活躍して、他のみなさんもそれにちょこっと絡んだり、じっと耳を傾けたりしてくれました。
その合間合間で、リスニング力のない私を助けてくださる方がいる。
ぬかを訪れると、いつも、人の存在の愛おしさというものをしみじみと感じます。
人間としての大事な感覚が回復する気がする。
ご参加、おつき合いくださったみなさん、ありがとうございました。
お土産にいただいた『そのうち月刊 ヌー』も最高でした。
「そのうち月刊」とか「なんでそんなんプロジェクト」とか「市田文化人類学」とか、このセンスが好きすぎる。2号も楽しみです。