松川えりのてつがく日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「視線」@フリーデザイン岡山

先週はフリーデザイン岡山で、コミュニケーション哲学カフェ。

 

テーマは…

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これまで一度も出てこなかったけど、提案された瞬間、「なるほど、たしかにこれもコミュニケーションの問題やわ」と、これまで出てこなかったことが不思議になるくらい。

 

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最初は、見るほうと見られるほう、別々に考えてました。

  • 相手をどれぐらい見てもいいの?、視線を合わせるのはなんのため?
  • 相手にどう見られているか、相手の視線が気になるのはなぜ?

しかし、あれこれ話すうちに、結局見る時も相手にどう見られるかが気になっているのでは?という指摘が出てきたり。*1

 

また、相手にどう見られているか、視線の意味がわからないから不安になって、あれこれ妄想しちゃうけど、「きける相手にはきいちゃえばいい」というやりとりからは、この視線の問題の所在について、発見が。

視線の問題というのは、いつでも生じるわけでもない。

相手の視線が気にならないとき、相手に関心がないときも、率直に視線の意味を言葉できける間柄でも生じない。

相手のことが気になりつつ、それを言葉できけない相手との間に生じる。

言葉の手前、言語的なコミュニケーションの手前。

そこから、言語によるコミュニケーションに移行するのはどんな場合か、興味深いなぁ。

*1:こっそりメルロ=ポンティの見るものと見られるものの両義性に関する思想を思い出したりしていました。