先週はフリーデザイン岡山で、コミュニケーション哲学カフェ。
テーマは…
これまで一度も出てこなかったけど、提案された瞬間、「なるほど、たしかにこれもコミュニケーションの問題やわ」と、これまで出てこなかったことが不思議になるくらい。
最初は、見るほうと見られるほう、別々に考えてました。
- 相手をどれぐらい見てもいいの?、視線を合わせるのはなんのため?
- 相手にどう見られているか、相手の視線が気になるのはなぜ?
しかし、あれこれ話すうちに、結局見る時も相手にどう見られるかが気になっているのでは?という指摘が出てきたり。*1
また、相手にどう見られているか、視線の意味がわからないから不安になって、あれこれ妄想しちゃうけど、「きける相手にはきいちゃえばいい」というやりとりからは、この視線の問題の所在について、発見が。
視線の問題というのは、いつでも生じるわけでもない。
相手の視線が気にならないとき、相手に関心がないときも、率直に視線の意味を言葉できける間柄でも生じない。
相手のことが気になりつつ、それを言葉できけない相手との間に生じる。
言葉の手前、言語的なコミュニケーションの手前。
そこから、言語によるコミュニケーションに移行するのはどんな場合か、興味深いなぁ。