昨日の午前は、スロウな本屋さん主催のえほん哲学カフェでした。
今回の一冊は『こんとん』。
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ずいぶん前にスロウな本屋さんに教えてもらって、めっっちゃ気になったけど、ここからどんな話が出てくるか1ミリも想像できなくて、これを哲学カフェで扱う自信がなくて、1年、2年‥‥‥。
しかし、やはり本屋さんを訪れるたびに、やっぱり気になる!
どんな話が出てくるか1ミリも想像できないのは変わらないけれど、こんなに気になるってことはやっぱりやらなきゃ!とおもって、やってみることにしました。
以下、ネタばれご容赦を。
対話は、最後のページの「きみのことが すきだよ。」という言葉に対する「これは、誰が誰に語りかけているんだろう?」という疑問からはじまりました。
そこから次第に、この絵本のなかで描かれる「こんとん」の様々な捉え方が浮上します。
「認知症の家族と重なった」
「生まれる前の胎児ではとおもった」
「混沌とした気持ちを表している」
「自分自身かもしれない」
「シンプルに“混沌”とはどのようなものかを描いたもの」
さらに、目も耳も鼻も口もない「こんとん」に「目と耳と鼻と口をつくってやろう」という帝たちの行為についても、それぞれの「こんとん」に抱くイメージを踏まえて様々な捉え方が浮かび上がります。
「こんとん」とした状況を打開するとは、見えない聞こえない状態から見える聞こえない状況にすることなのではという考えと、
でも、そうすると失われてしまうものがあるかもしれないという考え。
「こんとん」にあるものではなく、ないものに注目したのはなぜか?という疑問。
「ありのままを受け入れてもらえないことに、心がぎゅっとなった」という声。
それから、こうして対話のなかで他者の声を聞くことも、これまで見えなかったものを見る目をもらい、聞こえなかったことを聞く耳をもらうという側面がある。そういう意味では、「この哲学カフェでいま話している人たちも、自分にとっては帝たちのような存在」という指摘。
「こんとん」のそばにいる人の視点にたったかとおもえば、「こんとん」を自分自身と重ねたり、自分も他の人からみたら帝と同じことをしているのか!と気づいたり。
話を聞くたびに、自分の視点や立ち位置が変わって、びっくり!
私は知らなかったのですが、この絵本のもとになった荘子の『渾沌(渾沌)』を高校の漢文の授業で習った方もいらっしゃるんですね!
荘子の『渾沌』だけでなく、絵本の最初のほうの話は、中国神話が下敷きになっていたりもするようです。
でも、この絵本の「こんとん」からは、それらの『渾沌』と重なるところもありつつ異なる印象を受けるような気も‥‥‥
対話のあと、みなさんと対話する前より、なんだか「こんとん」が愛おしくなっている自分がいることに気づきました。
今度、混沌とした気持ちや状況になったときには、またこの絵本を開いてみようと思います。