10月2日(土)の午前中は、スロウな本屋さん主催のえほん哲学カフェでした。
今回の1冊は、こちら。
いじめに戦争、環境問題‥‥‥あなたが「わたしのせいじゃない」って言いたくなるのはどんなとき?
「はじめたのは、わたしじゃない」、「先生に言いつければいいのに」‥‥‥。教室で泣いている男の子を前に、それぞれの仕方で「わたしのせいじゃない」と訴える14人の子どもたち。その言葉をヒントに、責任について考えてみませんか?
(えほん哲学カフェの案内文より)
以下、ネタバレご容赦を。
えほん哲学カフェでは、毎回、最初に、わたしが絵本を音読します。
自分でもびっくりしたのですが、その音読で、今回は、いままでに感じたことがないしんどさを感じました。
おおぜいでやってたのよ
ひとりではとめられなかった
わたしのせいじゃないわ
はじめたのは わたしじゃない
ほかのみんなが たたきはじめたのよ
わたしのせいじゃないわ
「わたしのせいじゃない」と訴える言い訳のような言葉が、自分の口から自分の声で出てくるのが、しんどい。
自分で「この絵本でやろう」と決めたのに、何度も文字で読んだのに。
声に出して読むと、こうもちがうのか。
戸惑うと同時に、こうしたしんどさを感じられる自分の感覚に、安堵もしました。
なんとか読み終えて、みなさんとの対話。
対話前は、14人の子どもたちの言葉について、
「この子は“わたしのせいじゃない”とは言えないのでは?」
「この子がこう言いたくなる気持ちはわかる。この子のせいじゃない」
というふうに、「わたしのせいじゃない」のは本当か、1つ1つ確認するような、そんなやりとりがあるのかなと想像していました。
でも、実際の展開は、全くちがいました。
「白のページ(子どもたちが、ひとりひとり「わたしのせいじゃない」ことを説明するページ)、黒のページ(戦争や環境問題、貧困問題を感じさせる写真のページ)のギャップに戸惑った」
「いじめの責任と、環境問題や戦争の責任は、同じように語れるのかな」
「誰も、泣いている子の話をきいてあげていない」
絵本を読んで思い出した、自分が子どものころクラスで体験したこと。
それから、終盤に出てきた「これが“責任”の話なの? “責任”ってもっとちがうものだと思ってた」という問いかけと、もうひとつの“責任”のこと。
「大きなパンだって、みんなが自分が食べれるぶんだけちぎって協力すれば、やっつけられる。そういうあり方の責任があるのでは?」
「“〜のせい”と誰かを責めるのではなく、“take part in~”な責任がどういうものか、見てみたい」
今回の、声に出して読むのがしんどくなってしまうこの絵本も、みんなの記憶を引き出して大切な何かを思い出させてくれただけあって、きっと、“責任”について重要な一面を描いているのだと思う。
だけど、もしかしたら、このシリーズにもう1冊、これとは異なる“責任”の本があってもいいんじゃないか。
この絵本と対になる、もう1冊の“責任”の絵本がほしい。
えほん哲学カフェで、そんなことを考えたのは初めてでした。
その後もふとこの絵本が目に入るたびに、もう1冊、“責任”の絵本をつくるとしたらどんなのがいいかな〜、と妄想しています。
ご参加くださったみなさん、それから今回も私たちの心と思考を揺さぶる1冊を教えてくださったスロウな本屋さん、ありがとうございました。