昨日は、長島へ。
喫茶さざなみハウスで、「さざなみ 歩く学校」の第1回。
「社会で揺らめく人の感情」というタイトルで、長島愛生園入所者自治会長の中尾伸治さん、長島愛生園歴史館学芸員の田村朋久さん、さざなみ店主の鑓屋さんと対話してきました。
さざなみ 歩く学校 第1回「社会で揺らめく人の感情」 | さざなみハウス
以前からヒバリ照ラスや宝湯で一緒に哲学カフェを開催してきた鑓屋さんと、「春頃に長島をぶらぶら歩く企画をやりたいね」と話していたのですが、新型コロナウィルスの影響でお流れに。
それはそれでそのうち実現するつもりなんですが、いまはそれ以上に、新型コロナウィルスで揺れる社会や自分の気持ちに向き合いたい。
ハンセン病に感染された方が家族と引き離され、(中尾さんの言葉をお借りすると)「閉じ込められ」てきた長島という場所で、ハンセン病を生きてきた中尾さんと、その歴史をわかりやすく教えてくださる田村さんと、一緒に考えてみたいということで実現しました。
当日配信もされてYoutubeで観れるので、ここでシェアしておきますね。
8/29 sat. さざなみ歩く学校「社会で揺らめく人の感情」
以下、わたしなりのざくっとしたふりかえり+感想です。
中尾さん、田村さんにハンセン病と新型コロナウィルスの共通点と違いをうかがうと‥‥‥
感染症という共通点はあれど、感染から発症までの期間や病が外見から見えるか見えないかなどなど、病の特徴は全然ちがう。
情報伝達のあり方や国家政策のあり方もずいぶん変わった。
ハンセン病を生きてきた中尾さんからみると、今の私たちの状況は、ハンセン病のときよりずっと栄養も医療も行き渡っている状態。
田村さんのおっしゃるとおり、情報も様々な仕方であるし、ハンセン病に対する差別や偏見を反省してつくられた人権を守るための感染症法もある。
「隔離」といっても国が強制的に生涯にわたって「閉じ込め」ようとしているわけじゃない。*1
「治るだろうか」という不安や恐れはあれど、治れば出られることがわかっている、あくまで療養と感染予防のための一時的な隔離にすぎない。
にもかかわらず、なぜ同じような差別や排除が起こってしまっているのか?
そのもどかしさを、すごくすごく大事にしたいと思いました。
後半は、来場者の方の「隔離」に関するコメントから、①感染予防のための隔離と、②人々を閉じ込め社会的に分断して隔離と、③法や制度をすり抜け人々の内面に巣食う精神的な隔離のちがいや、感染症だけでなく、様々な障害者と健常者を分けてしまう社会的分断についても考える展開となりました。
ハンセン病については、いまでは差別として認められている閉じ込め政策を根拠に「隔離してるということは、隔離するだけの理由があるんでしょ」と言う人もいたそうです。
ハンセン病も今では治療可能な病気で、長島に暮らしている方達も、かつては治療不可能な時代があり、なんらかの予防的な隔離が必要だったというのは確かかもしれない。
けど、正体不明の病への恐れからなされた言動を不用意に信じることの危うさと、そこから生まれる分断の恐ろしさを、改めて感じました。
後でうかがったのですが、この美しい景色を、「全く美しいと思えない。グレーの海にしか見えない」とおっしゃる入所者の方もいるそうです。
そんなふうにしか見えないようにさせてしまった歴史を改めて重く受け止めなければと思いました。
長島愛生園、強制的にではなく自主的に訪れる分にはとても美しい心地よい島なんです。
そして歴史館には、重い差別や排除の歴史とともに、そんな困難な状況のなかで生きてきた人たちの強さを感じる作品も。
わたしにとって長島は、差別の重さとともに希望を感じさせてくれる場所でもあります。
訪れるたびに、生きるとはどういうことか、を考えさせられます。
いまは居住地域への立ち入りはできませんが、すぐには難しい方もたくさんいらっしゃるでしょうが、もし機会があれば、ぜひ訪れてみてください。
(わたしも、また行きます。)
わたしが初めて長島愛生園を訪れたときの感想はこちら↓↓