7月26日(金)は、明石高専で「哲学概論」の授業(今年度最終日)を終えたあと、名古屋へ!
哲学者の宮野真生子さんと人類学者の磯野真穂さんのお誘いで、丸善名古屋本店の丸善ゼミナールで、哲学カフェ「モテ×ダイエット〜変身願望ありますか?〜」の進行をさせていただきました。
宮野さんは他者、磯野さんは食べ物をテーマに、自分のあり方、世界との関わり方について研究してきた方です。
当日は、前半、おふたりから、糖質ダイエットや恋愛工学などの具体例を挙げつつ、変身願望の奥にある「承認を求めれば求めるほど、他者からのマニュアルに依存し自分を手放してしまうことになる」という陥落という問題を提示していただき、後半は来場者のみなさんと、「変身願望ありますか?」をテーマに哲学カフェ‥‥‥という流れでした。
「変身」について、こんなに考えたのは初めて!
企画段階から終了後まで、本当にたくさんのギモンが、頭の中を駆け巡りました。
以下、対話のふりかえりというより、この企画を通してわたしが感じ、考えたことになります。
まず、企画中から、おふたりの著作を通して、自分のなかにある変身願望や、「愛される女性であれ」という呪いの存在に気付かされ‥‥‥
医療者が語る答えなき世界: 「いのちの守り人」の人類学 (ちくま新書1261)
- 作者: 磯野真穂
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2017/06/05
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なぜ、私たちは恋をして生きるのか―「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史
- 作者: 宮野真生子
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次に哲学カフェでみなさんと対話して、
変身願望の奥にある承認欲求と断片化
変身と成長の相違点と共通点
「変わりたいと思っていると変われない」という逆説
「私はこうして変わりました」という物語のアンビバレンス
科学の衣をまとう概念と言葉にしきれない体感とのギャップ、
全ては変わりゆくのにわざわざ変身願望を抱いてしまうことの滑稽
などなどに唸り‥‥‥
そして翌朝、ふと、
みなさんとの対話のなかで暴かれた様々な危うさの根元には、
やっぱり宮野さんが注目されていた偶然性の喪失があるんじゃないか、
と思い至りました。
たとえば、参加者のおひとりがお話くださった、「変身願望があるときは変身できなかったけれど、変身を諦めたら『変わったね』と言われるようになった」というお話。
わたしはとても感銘を受けたのですが、その物語に、「変身願望の奥にある承認欲求と同じ構造を感じる」と指摘してくださった方がいました。
それは、もしかしたら、その物語に偶然性というものが欠如しているからかもしれません。
本来、偶然性を孕んでいたはずの出来事が、誰かに語ろうとした瞬間、あたかも最初から結末(ゴール)が決まっていたように聞こえてしまう。
宮野さんも著作のなかで、「恋愛をとおして本当の自分に出会った」という物語の危うさを指摘されていますが、そもそも物語るという行為自体が、そういう構造的な危うさを含んでいるのかもしれません。
そして、それは必ずしも事後的に起こるとは限らない。
わたしたちが、自分の物語を自分のなかで構築しながら生きるとき、結末の先取りによって偶然性を捉え損ねてしまうということはありそうです。
だとしたら、その危うさは、単に出来事を事後的に物語る行為にだけでなく、人生そのものに侵食してくることになります。
さらに翌日、偶々、年長さんの子どもたちと対話する機会があったのですが‥‥‥
もしかしたら子育てや教育における「こんな子に育ってほしい」という願望も、「成長」を願っているようにみえながら、その実、「変身」を求めることになってしまってはいないか。
もし、子どもたちのなかにある偶然性や、子どもたちが出会う偶然性を愛おしむ気持ちを失ってしまったら、「別人になれ」というのと同じぐらい酷なことをしてしまう恐れがあるのでは。
あれこれ考えるうちに哲学カフェの内容からだいぶ離れてしまったかもしれませんが、今回の企画をとおして、わたしたちのなかにある偶然性や、わたしたちが出会う偶然性を、愛おしみ慈しむことの大切さに気付かされた気がします。
ご参加くださったみなさんにも、これとは全然違う気づきや発見が、それぞれにあったかもしれません。あったらいいな。
ご参加くださったみなさん、宮野さん、磯野さん、丸善名古屋本店のみなさん、ありがとうございました。