いろんな方がfacebookでシェアしてくださったこちらの批判記事、
批判されてる内田樹さんの書評もあわせて読みました。
責任ある言論人として内田氏に必要だったのは、「何も知らない」ゆえに書けないないのであれば書評の依頼を断ることでした。*1
これって、まさに、わたしが“てつがくやさん”の危うさとして感じていることだ。
断ることができなければ、パレーシアテース(真実を語る者)としての哲学者としての資格を失ってしまう。
だから、生活のために哲学する、あるいは哲学以外のなにかのために哲学するということは、哲学そのものを危うくしてしまう。
ここが“てつがくやさん”の危うさだ。
ちょうど、そういうことを今月末(6月27日)の「お金をもらって哲学するとは?」なぞらじスペシャルライヴで言葉にできるといいな、と考えていたところだった。
でも、もしこれが内田さんなりの、「俺にこの書評を依頼するなんておかしいでしょ」というメディア批判だったとしたら?
これが内田さんなりのパレーシア(真実を語ること)かもしれない。
‥‥‥とも考えてみたけれど、だとしてもやっぱり他者(著者をはじめこの詩集に関わった人たち)にへの配慮を欠きすぎていることは否めない、よなぁ。残念だけど。
その危険性と自分も隣り合わせなのだと自戒を込めて。