先日の打ち合わせで、自分で言いながら、自分の言葉にはっとしたこと。
話しやすいかどうかと、対等に話せるかどうかは、必ずしもイコールではない。
特に職場や学校、サークルなどのコミュニティでは、ブルデューが「ハビトゥス」とよんだような慣習にのっとったほうが、話しやすさが増すこともある。
けど、その話しやすさが、必ずしも対等さを実現してくれるわけではない。
反対に、対等さを損なう可能性だってあるのだ。
そして、対等さが損なわれた関係性のなかでは、「ホントにホントのホント!?」を問うことは難しい。
哲学カフェの「盛り上がり」を、発言の多さや沈黙の少なさで測ることの危うさも同じ。
もちろん、話しやすさの実現と対等さの実現が重なる場面もけっこうある。
けれど、いつもそうというわけでもないということは、進行をするわたしが理解しておくだけじゃなく、今回のように対話を依頼してくれる方や参加者にも、必要があれば伝えれるようにしないとな。
ちょっと話しにくいぐらいが哲学するにはちょうどいい、ということも、ときにはある。