一昨日、5月30日(月)午前は、岡山市立高島公民館で哲学カフェ、“ふたばトーク”でした。
テーマは、1月に予定していてコロナの影響で流れてしまった、「子どもと大人は対等?」。
親子関係ではなく、子どもと大人の関係を問いたいということで、何度か検討を重ねてこのテーマに落ち着いたのですが、テーマ提案者も「『対等?』という形(問い)でいいのかなぁ?」と迷いながらの、スタート。
- 親にとっての子ども(いくつになっても親にとっては子ども)
- 大人の対義語としての子ども
- 未成年という意味での子ども
- 精神的な子ども(大人のなかにもある子ども性)
‥‥‥と、様々な意味での「子ども」について、そしてそれらの関係について、じっくり考える時間となりました。
もしかしたら、対等かどうかに関するやりとりより、「子どもと大人の違いって?」「子どもはいつどうやって大人になるのか?」(大人になるターニングポイントがある?いつの間にか大人になる?)について話し合ってた時間のほうが長かったかもしれません。
いや、でも、対等かどうかについても、いくつか興味深いやりとりがあったなぁ。
- 子どもが成長するにつれて、関係が変わる(お世話する側から、対等な時期を経て、お世話される側に)
- 子ども料金や少年法がなぜあるのか?
- 子どもはいつか子どもじゃなくなる。ずっと子どもでいるわけじゃないから、特権を許せる。
- 選挙権がなくても、子どもが法律や制度を変えることはできる?
みなさんのお話を聞きながら気づいかされたのは、親子以外の子どもと大人の関係であっても、子どもに保護者がいること、子どもが負える責任に限界があることを無視できないところがあるなぁ、ということ。
哲学対話だって、大人の場合は本人が参加したいと思えば参加できるけど、子どもは親の許可や先生のサポートがないと難しいことも多いし。(会場へ行くにも、親に車で送ってもらう必要があったり。)
そう思うと、以前、高島公民館で実施していた夏休みフリー塾での哲学対話は、保護者や先生の許可なく子どもが自由に参加できる、レアな機会だったなぁ。またやりたい。
と、思わぬところで密かに公民館のすごさを感じたりもしました。
そして、午後からは、のびのびになっていたテーマ会議。
7月のテーマを決めるのが目的だけど、1つしかテーマが選べないのはボツが大量生産されちゃってもったいないので、秋の分も決めちゃいました。
6月は、これもコロナで延期になってしまった「なぜ認められたいのか?」について考えます。
詳しい日程については、公民館だよりなどでご確認ください。