最近、改めて思うのですが、哲学対話のふりかえりは、哲学対話とはまたちがった集中力が要りますね。
私、哲学対話は、よっぽど体調が悪くないかぎり(それこそトイレに歩いていけないぐらいじゃなければ)いつでもできるんですが、ふりかえりはある程度心身のコンディションが整ってないとできないみたいです。
そんなわけで、ちょっと間が空きましたが、先週の12月8日(金)のふりかえり。
倉敷の美観地区にあるカフェギャラリー バード2006にて哲学カフェをしてきました。
オーナーさんにあれこれ出していただいたキーワードから、テーマは、
「“つながり”と“しがらみ”のちがいは?」にしてみました。
「つながり」については、先月も大阪で「人がつながりを求めるのはなんで?」を取り上げましたが、今回は、家族の話題で盛り上がるという共通点もありつつ、ちがった趣で展開しました。
まず最初に出てきたのが、年賀状の話題。この季節ならではですね〜。
「それは、“つながり”? “しがらみ”?」と尋ねたら、「両方!」という答え。
「プライベートと仕事関係で分ける」「親戚だけど、この人は仕事関係と同じデザインにしよう」「子どもの写真はあり?なし?」「この人はそろそろいいかな〜」etc...
「気づいてなかったけど、けっこう細かく相手との関係を判断してる!」ということが判明。
あと、送るときだけじゃなく、購入するときにも「親戚が郵便局に勤めてるから、減らせない」と“しがらみ”の影響があるという人も‥‥‥。
そこから、親戚の話題に。
印象に残ったのが、“しがらみ”だけ切りたいのに、きっちゃうと“つながり”も切れちゃうという話。
ある人にとっては“つながり”である関係が、別の人には“しがらみ”に感じられたり、“つながり”だった関係が“しがらみ”になりえたり‥‥‥。
そんな話題から、人によって感じ方が異なる点が二つ浮かび上がってきました。
- “つながり”と“しがらみ”の関係は、反対か内包か裏表か?
- “しがらみ”はネガティブだけど“つながり”はポジティブなものかどうか?
さらに、前半のやりとりを振り返りつつ、こんな論点も。
- 自由と“つながり”や“しがらみ”との関係は?
- つながりによって、“自分”の範囲も変わるのでは?
- どういう状態なら“つながってる”って言える?
後半は、家族の話題が中心で進みました。
出産という経験や血のつながりに家族の“つながり”を感じる人、日々の暮らしに家族のつながりを感じる人、「家族のつながり」といっても人によってイメージは様々。
そして、家族というつながりの特有さに言及する発言がたくさん出たのですが、そのポイントが浮かび上がるほど、「家族以外のつながりにも当てはまりそう」とも感じられ、不思議な感じがしました。
いつか倉敷で「家族ってなに?」というテーマも取り上げてみたいな。
次回、倉敷の哲学カフェは、あきさ亭で開催します。
テーマは「ゆとりって必要?」。