昨日午前中は、岡山市立高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。
テーマは、「どうして人の悪口を言ってしまうのか?」。
あれこれ話すなかで
- どこからどこまでが悪口?
- どうして悪口ととってしまうのか?
という問いも浮上し、愚痴や悩み相談、忠告、陰口とのちがいや共通点も浮かんだり消えたりしながら、
- 言う側の意図
- 受け取る側が傷つくかどうか
- 相手の評価を下げるかどうか
- 関係性や立場
- 口調
などなど、悪口の様々な要件が出てきました。
具体的な例をきけばきくほど、同じ状況や場面で同じ言葉をきいても悪口と感じるかどうか人によってちがって‥‥‥
ああ、これこそが悪口を言ってしまう理由かもしれない。
言ってる人は悪口だとは思わず言ってる(けど言われた人や周りにとっては悪口ととる)ケースもかなり多そう
‥‥‥と感じました。
なかでも、私の中で対照的な印象を残した指摘が、以下の2つ。
1)悪口は軽い
噂話や週刊誌の例をふまえて、最後にある参加者が「わかった!悪口は軽いんだ!」と言ってくれました。
なるほど、言う方は、軽いことだと思ってるから言っちゃうんだ!って、ずしんときたなぁ。
2)忠告や相談事で、言葉がきつくなってしまったり、相手を傷つけてしまうこともある
こちらは対照的に言う方に余裕がなくて、「あなたの(あの人の)こういうところに困ってる!」「きつく言わなきゃきいてもらえない」という余裕のなさから、言葉がきつくなってしまったり、若干の悪意がまぎれこんでしまうケースもあるという指摘。
この点について話してくださった方も家族とのやりとりを例に出してくれたんですが、私も家族とのやりとりを思い出して、うんうんと頷いてしまいました。
相手を傷つけたいわけじゃないけれど、家族だからかやんわり言っても真剣に受け止めてもらえなくて、真剣に受け止めてもらうためにきつい言葉を出さざるをえなくなってしまう状況、どうにかならないかなぁ。
前回書いた『ことばのかたち』のえほん哲学カフェで、(本のなかで忠告の言葉を木の実に喩える描写があったので)「いが栗を投げつけるような忠告の言葉は投げないようにしよう。できれば栗ご飯のような言葉で相手に渡したい」と話したんですが、この哲学カフェでも、やっぱり同じことを思いました。
脱・いが栗ことば!
‥‥‥を今後1年の目標にしようかなぁ。