昨日、コロナウィルス感染拡大の影響で対応を迫られることが、それぞれの対話活動を、何のために、どういう場所で、どういう方を対象に行うのかを確認する機会にもなっているいるという記事を書きました。
今日、たまたま開いた本ほたまたま開いたページに、ぴったりの言葉がありました。
ここでわたしたちが考えてみなければならないのは、しばしば指摘されるような哲学の失力は、哲学的思考が、だれの前で、だれに対してなされるものかという問いを、じぶんに向かって立てなくなったことに起因するのではないかということだ。哲学を、《反省》という、他者が不在の場所ではなく、他者との関係という場に置き直してみることだ。
(鷲田清一『「聴く」ことの力』p.29)
“哲学はどこまでも《メタ》という次元を含む。
なにものかへの問いは、その問いそのものへの問いを自己言及的に含んでいなければならない。
(鷲田清一『「聴く」ことの力』p.29)
それへの問いが哲学の中枢神経なのだ。その問題を問わないで、いきなり街に出るのはグロテスクである。
(鷲田清一『「聴く」ことの力』p.29)
引用元は、こちら。私の哲学バイブル(のうちのひとつ)です。