先週末7月日(日)は尾道へ。
おなじみantenna Coffee Houseさんにて哲学書の言葉に触れ語り合うテツドク!を開催しました。
これが、コロナで延期された哲学カフェ、再開1号となりました。
しかも、当日は電車の遅延のため、1時間遅れのスタート。
…いろいろありましたが、馴染みあるお店にたどり着いたとき、本当にホッとしました。
antennaさんは、私が岡山でわりと初期からお世話になっていることもあり、ここで再開のスタートを切れてよかったです。
そして今回の一冊は、こちら。
三木清の『哲学入門』。
わたしが14歳のとき初めて読んだ哲学書で、
「わたしがこれまで考えてたことって哲学っていうんだ!」と教えてくれた本です。
そのことは、7月31日に発売されたこちらの本の寄稿にもちらりと書かせていただいたのですが、
一言で言うと、科学的と哲学のちがいを教えてくれた思い入れ深い一冊なのです。
さらに、大学の恩師、鷲田清一先生も文献演習で取り上げてたので、読んで損はない一冊かなと。
しかし、西田門徒独特の言い回しに、「呪文のようだ」という感想も!
そんななか、ずっと黙って聴いていた方が最後のほうにおっしゃった「まるで宗教のようだ」という感想からはじまった対話が印象に残っています。
「わたしたちは仏教に馴染みがあるから『宗教みたい』と感じるけど、キリスト教の文化だとこれを宗教っぽく感じないのでは?」
「真理という言葉に、倫理的な意味が込められていて、『こうしなさい』と促してるところにも、教義に近いものを感じる」
「そもそも仏教も宗教なのか、哲学なのか? 問答の修行は哲学でもありそう」
‥‥‥などなど。
これこそ、三木がこの本で明らかにしようとしたと言っている「真理の行為的意味」のポイントかも。
つまり、三木にとって真理って、論理的に正しいかどうかが問われるものというより、ある具体的状況のなかである知にしたがって行為してみる、自らを省みながら行為することのなかにあるもの。
三木清は「知るとは選択することである」と、次のように言いました。
認識するとは、与えられたもののうち、本質的なものと非本質的なものとを区別し、選択することであって、これはすでに主体の能動性に属している。
認識は一方主観から規定されると共に他方客観から規定されている。それが主観から規定される限りにおいて認識は構成的であり、それが客観から規定される限りにおいては認識は模写的であるということができる。
ここから、環境と人間の関係も、汝と我の関係も、社会と自己の関係も、前者が後者を規定すると同時に後者が前者を規定するような関係にあると論じ、そこから人間の多様性、徳や使命についても論じていきます。
哲学の3大テーマととして、真、善、美がよく挙げられますが、三木においては真自体に倫理が含まれるところが特徴的なのかな。
14歳のわたしにとっては哲学とはなにかを教えてくれた一冊でしたが、今回の対話をとおして、三木自身がこの本で扱ったと明言している「真理の行為的価値」のついても、少し理解が深まった気がします。
様々な状況にもめげず、ご参加くださったみなさま、そして開催してくれたマスター、ありがとうございました。