2月11日(日)は、尾道のantenna Coffee Houseにて、シネマ哲学カフェでした。
上映と合わせると約4時間の長丁場。
(前日、映画館で観て、哲学カフェから参加してくださった方もいました。)
それでも、まだまだあと1時間は話せる。話したい!
そんな映画でした。
以下、ネタバレ注意。映画の内容を知りたくない人は読まないでください。
この映画では、8人の盲ろう者が紹介されています。
先天的あるいは幼くして盲ろうになった人、物心ついてからあるいは大人になってから盲ろうになった人、視覚障害と聴覚障害を同時に抱えた人、どちらかの障害が先にあってあとからもう一方の障害になった人。
全く見えない人、弱視の人。
自立して暮らしている人、自立の方法を模索中の人。
家族と暮らしている人、一人暮らししている人。
コミュニケーションに使う方法も、手話、指点字、手書き文字など、色々。
そんな様々な盲ろう者の暮らしやインタビューから成るドキュメンタリー映画を90分観た後、飲み物片手に、映画の観て感じたこと、考えたことを語り合いました。
- 盲ろう者の存在を知ったときの衝撃はどこからくるのか?
- 「衣食住が満たされているだけでは、牢屋にいるのと同じ」なのは、なぜ?
- 「光も音もない世界」は、光や音が欠けているだけの世界なのか?
- 障害者が求めるものと、周囲の人の支援がズレてしまうのはなぜか?
- 涙を流す通訳者ではなく「大丈夫?」と心配する川口さんの姿が映すことに意味があるとしたら、どんな意味があるのか?
- お掃除を終えてビールをぐいっとやる渡邊さんの姿に、なぜほっとするのか?
様々な感想を行きつ戻りつしながらも、前半は、主に、盲ろうの人が感じている世界はどんな世界か、もしそれが想像できないとしたらなぜなのか、感覚の違いに関する言及が様々な方向からされました。
後半は、盲ろうに限定されない障害者と支援者の思いのズレや、障害者と非障害者の分断が大きな論点だったでしょうか。
どの話も興味深く終わった直後は対話の内容を整理できずにいましたが(いまも整理しきれていませんが)、「彼らと生きる世界が分断されるのはイヤだ」、そんな思いを余韻として感じました。
映画のなかに出てきた盲ろう者協会にしても、視覚障害のある友人の盲学校時代の話を聞いていても、同じ障害や悩みをもった仲間同士が集まって、それぞれのハンディに合った学びや交流の場があることは、とても大事だと感じます。
だけど、そのことを理解してもなお残る、彼らの存在を普段感じずに暮らしていることに対する違和感。
そして、本当はたくさんいるのに、日常生活で接する機会がないために、彼らとどう接していいかわからない自分自身に対するもどかしさ。
みなさんとお話して、そういう違和感やもどかしさを感じられてよかったです。
ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
ありがたいことに、岡山や関東など、他の地域でも『もうろうをいきる』のシネマ哲学カフェを開催してほしい!という声をいただきました。
ただ、残念ながら、私には上映に関するノウハウがありません。
今回のように上映会とセットで企画するにしろ、どこかで上映しているのに便乗してシネマ哲学カフェだけ開催するにしろ、開催場所や料金について情報提供いただくか、一緒に考えてくれる協力者が必要です。
特に上映会とセットで企画となると、上映料金をどうやって賄うかという点をクリアしなければなりません。
もし、その点、一緒に考えてくださる方がいらっしゃったら、私もぜひまたやりたいです。
そして改めて、今回、上映料やら私の進行代+交通費のことも考えて企画してくれた(さらにはポップコーンまで用意してくれた)、antenna Coffee Houseのマスターに、お礼申し上げます。