3月19日(月)は、今年度最後のふたばカフェ。
高島公民館の哲学カフェでした。
テーマは、「ずるいって思うのはどういうとき?」。
「ずるいについて考えたい」と提案してくれた方に動機をうかがってみると、
「学校で、発達障害の子が他の子を叩いちゃったときには、丁寧に対応してもあらえて、他の子が叩いちゃったときには、怒られるだけなのを、子どもが見て『ずるい』って言うんだけど、どうなんだろう?」
という、とても日常的かつ社会派な動機でした。
すると、視覚障害のある方が、「障害者にとって『ずるい』と言われるのは日常茶飯事」とこんな例を教えてくれました。
「弱視の友だちが、職場で『これは弱視だからできない』と伝えても、『他のことはできるのに‥‥‥やりたくないから見えないって言ってるんじゃないの?』って言われてしまう」
‥‥‥なるほど、難しい。
他にも、「レジャー施設などで、障害の種類に関係なく一律に『障害者の方、お先に入りください』と通されると、『健常者の人と同じでいいのに』」と、反対に自分がずるいのではと思う例も。
その後、ポツポツと
- 同じスポーツをやってる人から「この大会は私が出るから、あなたは出ないで」と言われた
- 子どもが自分のバイト代は節約して計画的に使うのに、親のお金は太っ腹に使ってしまう
- 車の運転が苦手なので、ゴミを車で回収する当番をパスしたいけど‥‥‥
- 兄弟姉妹で、親の対応に差があった
などなど「これって、ずるい?ずるくない?」と迷う例を出し合って、あれこれ話すうちに、一つのポイントが浮かび上がってきました。
それは、「ずるい」と感じるのは、単に「平等に扱われない」だけじゃなく、それに加えて少なくとも何かもうひとつ(もしかしたら複数?)の条件がそろったときなのではということ。
たとえば‥‥‥
まだ幼い子が、他の子の分がなくなるぐらいおやつをたくさん食べてしまっても、「ずるい」とは思わない。ただ「まだわかってないんだな」と思うだけだけど、年齢や立場が近い人が同じことをしたら「ずるい」と思う。
自分に余裕があったら、他の人の分も負担しても気にならないけれど、自分に余裕がないときに他の人の仕事までさせられたら、「ずるい」と思う。
「え、そんなことをするんだ!?自分だったらそんなことしないし、思いもしないのにな」、というとき。
また、「ずるい」と思うかどうかの境界を探る過程で、「相手に『ずるい』と言えないのはなぜ?」といった問いや、「『ここからはできない』とわかりやすく示すために、本当はできることでもできないフリをするのも有効では?」という「印象管理」論なども飛び出し、興味深かったです。
ご参加くださったみなさん、ありがとうございました。
転勤で、岡山で哲学カフェに参加されるのは今回が最後の方も‥‥‥。
お引っ越し先でも哲学カフェが楽しんでいただけるといいな〜と願っています。