てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

私たちはどのようにして死を受容するのか?〜ロスの5段階説を読む〜@すろーす読書会

キューブラー・ロス『死ぬ瞬間』を読むすろーす読書会。

タイトルから受ける印象と裏腹に、死をプロセスとして捉え、受容に至るまでの5段階説で有名なこの本。

昨日は、ついに5段階目にあたる「受容」の章を、参加者のみなさんと読みました。

 

   
「受容を幸福な段階と誤認してはならない」「受容とは感情がほとんど欠落した状態である」と、これまでイメージしていた「受容」とのギャップに、驚く人もちらほら。
(私も、学生時代に読んで線を引いていたはずなのに、もう一度驚いてしまいました。)
 
また、これまで読んできた5段階のうち、もっとも家族とのズレが生じやすそうと感じる章でもありました。
 
参加者のみなさんとの対話では、主に「受容と諦めのちがい」に焦点が当たりました。
希望や治療可能性の有無、理性と感情、身体的な感覚はどのように影響するのか、しないのか?
「仕方ない」は受容なのか、諦めなのか?
治療可能性はどのように判断されるのか?可能性は多いほうがいいのか?
重要なのは、受容と諦めを識別することなのか?それとも「早過ぎる諦め」とそうでない受容や諦めの違いを識別することなのか?
家族と患者本人とのズレはどのように生じるのか?
患者本人が揺れるなかで、どの意思を尊重するのか迷うことはないか?
などなど。
 
全てのモヤモヤが晴れたわけではありませんが、様々な視点から読み込むことで、一人で読んだときには気づかなかった気づきもたくさん。
学生時代に読んだときより、ぐっとリアリティをもって読めている気がします。
 
 
5段階のそれぞれの段階を論じた章はこれで終わりですが、次回は、5段階を通じて存在するという「希望」に関する第8章を読む予定です。
イベントページができたら、私のウェブサイトでもシェアさせていただきますね。
もうしばらくお待ちください。
 
 

「なぜ認められたいのか?」@高島公民館

先日6月28日(火)は高島公民館の哲学カフェ、ふたばトークでした。

(コロナ以降、ドリンクを出せないので「カフェ」じゃなく「トーク」)。

 

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テーマは「なぜ認められたいのか?」。

これ、ここ何年かで1番、もしかしたらこれまでで1番難しいテーマだったかも。

このテーマ、こんなに難しいんだ!というのがこの日一番の発見でした。

 

文字通り頭を抱える人が出てくるぐらい難しかった!

その理由は、対話の中盤、私の「一つ一つの話はわかるんだけど、どうも迷子になってるから助けて」という呼びかけに応えてくださった方が教えてくださったとおり、「それぞれ思い描いている“認める”が違う」からなのでしょう。

存在を認められること、能力や才能を認められること、欲求を認められること。

どの話も理解はできるけれど、それぞれの「認められる」への関心をどう交わらせればいいのか‥‥‥。

 

しかし、振り返ってみると、それぞれの「認める」については、

  • 「愛される」ことと「認められる」ことの違いと関係
  • 社会的な変化(SNSの「いいね」ボタン、個人の能力のアピールが必要な状況)
  • 「認められる」ことと「自分で自分を認める」ことの関係

といった点で、深い気づきを得られた時間でもあったようにも思います。

 

「愛されたくて認められようとしてるけど、本当は愛されることと認められることは違うのではないか?」

「誰かの強い承認欲求を前にしたとき、痛々しさを感じてしまうのはなぜか?」

などなど。

 

また、みなさんから「愛される」ことと「認められる」の違いや、「評価される」と「認められる」の違いについて聞くなかで、ふと、「愛される」とも「評価される」とも言えない、他にしっくりくる表現が見つからないときに、私たちは「認める/認められる」という表現を使いがちなのではないか、と感じたりもしました。

他にクリアな表現が見つからないときに、ふんわり「認める」という言葉を当てはめて凌いだ経験、ありませんか?

私にはあります。

ぼんやりとしていてはっきりした言葉で表現できないときにちょうどいい言葉だから、それぞれ思い描く「認める」がなかなか一致しないのかもしれません。

 

難しかったけれど、考え甲斐のあるテーマではあったので、またやりたいなぁ。

大元公民館「言いたいことを言うのは難しい?」

先週の木曜は大元公民館にて“子育てモヤッとニコッとカフェ”でした。

テーマは、2月に予定していたけれどコロナで流れてしまった「言いたいことを言うのは難しい?」。

 

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今回はちょっと特別に、レクチャー付きで。

以前よりスタッフの方より「より地域のみなさんが主体的に対話づくりをしていけるように、対話セミナーもしたい」とご提案をいただいたので、私が大元公民館での対話づくりの参考にしているハワイの子どもの哲学(p4c Hawaii)から、安心して話せる対話づくりのポイントについてお話させていただいたあと、

  1. よんでほしい名前とその理由は?
  2. 家族とどうやって話してる?
  3. 言いたいことを言うのが難しいのはどんなとき?

の3つの質問にひとりずつ答えてから、対話スタート。

2つめの「家族とどうやって話してる?」は、参加者の方が提案してくださいました。

 

はからずも、大元公民館の地域性と役割が大きく浮かび上がる回となりました。

大元公民館のある地域は、転勤族の方が多い地域。

夫の転勤でこの地にきた当初は、話し相手がいない状態で子どもと向き合う日々のなか、精神的にしんどい思いをする方も多いこと。

誰かと話すことによって、そうした精神的な負担が緩和されることもあること。

公民館やこの対話の時間が、ときに「いのちをつないでくれた」という言葉が出てくるほど、大きな救いになっていること。

 

私も岡山に越してきたときは、話し相手がおらず、近所でよく会う鳥に話しかけていたことを思い出しました。

 

仕事や進学のために引っ越してきたのなら、自分がそこにいる目的や意味を見出しやすい。

でも、家族の都合で引っ越してきた場合は「なぜ私はここにいるんだろう?」「私ってなんだろう?」なんて疑問がもたげてくる。

気を許せる人と離れコミュニケーションがない状態だと、自分がどんな人間なのかもわからなくなってしまう。

表面的なコミュニケーションだけじゃなく、相手の考えを聞いたり、自分の考えを話したり‥‥‥そういうコミュニケーションがないと存在そのものがあやうくなってしまうという点が、この日一番印象に残りました。

 

その他、家族とのコミュニケーションについてあれこれ話ながら、浮かび上がったポイント。

  • 本当に言いたいのか言いたくないのか、自分の気持ちが曖昧なことも
  • 言いたいから言うのか、言う必要があるのから言うのか、どっち?
  • 理解し合うには伝えることが大事だけど、相手を動かしたり状況を変えるには、言う以外の手段のほうが適切な場合もあるのでは?

 

これで、ようやく2〜3月のまん延防止の影響で流れてしまった企画を全て消化できました。やれやれ。

 

 

7月は、恒例のモヤモヤ回の予定。

子育てモヤモヤを出し合って、秋以降のテーマを一緒につくります。

昨年度まで参加してくださっていた方が何人かまた転勤で他所へ行って人数が減ってしまったので、新たに地域に越してきた方にも参加してもらえるとうれしいなぁ。

大元地区の方、近隣で子育てしている方のご参加、お待ちしております。

詳しい日時については、地域の公民館だより等をご覧ください。