てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

関係を継続させるコミュニケーションって?@フリーデザイン岡山

今日は、月に1度の就労移行支援センターのフリーデザイン岡山へ。

以前は、哲学カフェとコミュニケーション・カフェを交互にやっていたわけですが、

コロナの影響で午前組と午後組に分かれて活動しているので、

わたしも午前と午後交互にうかがうことに。

午前組は哲学カフェしかしてなくて、午後組はコミュニケーション・カフェしかしてない!‥‥‥という事態をどうやって避けるか考えた結果、コミュニケーションに関する哲学カフェをしちゃおう♪ということに。

 

というわけで、今月は、午後組のみなさんと「コミュニケーションはなぜ難しい?」について考えてみました。

 

「コミュニケーションって難しいなぁと思うこと」をひとりずつきいたあと、

それぞれの「コミュニケーションの○○問題」を紙に書き出して話してみたところ…

 

「相手と自分のキョリ感の違い問題」と「継続させ方問題」

「不安・体調不良打ち明けられない問題」と「継続させ方問題」

「言葉にならない空気感問題」と「継続させ方問題」‥‥‥というふうに、

「(関係の)継続させ方問題」をハブとしながら、対話が展開。

 

関係が継続してる相手とそうでない相手は何がちがう?

相手とのキョリ感が近すぎるとどうなる?

メンタルの不調や嫌なことを伝えにくいのはなぜ?

角を立てずに、と思うのはなぜ?

どうでもいいと思ってる人ほど関係がうまくいくのはなぜ?

 

などなど、あれこれ話して、最後に残り判明したのが、

「好きな人ほど、相手にどう見られてるか気になって等身大で接するのが難しい。ありのままの自分でいられないから、関係が継続しない」

というどうしようもなく構造的な問題。

これが構造的な問題だということ自体が大発見ではあるのですが、だからといって、好きな人や憧れの人との関係を諦められるわけでもなく。

プログラム終了時間がきても、みんな去り難く雑談っぽくあーだこーだ話した結果、

「好きな人ほど、緊張したり背伸びしちゃうのは仕方ない。

『緊張してます』『ちょっと背伸びしちゃった』って正直に言ってみよう!」

という発案が出て、一同「それなら、できそう」と一安心。

 

「自分を実況中継すればいいんですね」という参加者の言葉に、

 そういえば、わたしも哲学対話の進行の一つとして、スポーツの実況中継を参考にしてるなぁ、と気づく。

実況中継を意識すると、自然にメタコミュニケーションできる気がする。

 

不安や体調不良の伝え方については、前にやった会話のきっかけレシピづくりをしておくと役にたちそうと思いました。

 

人に合わせちゃいけないのは、どんな時?@antenna Coffee House

昨日4月11日(日)は、2ヶ月に1度の哲学カフェ尾道

antenna Coffee Houseに集った会場組のみなさんと、オンライン参加者とをつなぐハイブリッド開催の2回目でした。

 

前回は、「進行役なんてたいして見えなくていいだろう。参加者優先で!」と私はカメラに入ったり入らなかったりだったのですが、オンライン参加者の方にありがたくも「できれば松川さんの動きも見えるとうれしい」というお言葉をいただいたので、マスターのPC+カメラから参加者のみなさんを写すと同時に、わたし持参のPCで進行役を写す、2カメラ体制で。(会場がどういう配置になってるのか、写真撮っておけばよかった!)

オンラインの方が話す時、参加者のみなさんはわたしの背後にあるスクリーンを見てるのに、わたしだけ自分のPCを見るという視線のズレがやや気になるところですが、antennaさんには2カメラが合ってるかも。

同じハイブリッド開催でも、会場によって合うやり方がちがって、大変だけど、おもしろい!

 

そんなコロナ禍で絶賛試行錯誤中の今回のテーマは、「人に合わせちゃいけないのは、どんな時?」でした。

 

コロナ禍における合わせる/合わせない問題からはじまって、

仕事での合わせる/合わせない問題、

慣習や同調圧力の強い地域で合わせないと浮いちゃう問題、

「合わせなさい」と言われたことならあるし、合わせたくないことがあるのもわかるけど、合わせちゃいけないってどういうこと?

そもそも合わせちゃいけない時って、本当にある?etc...

 

ざっくりふりかえるなら、「合わせるってどういうこと?」問題と、「合わせちゃいけないってどういうこと?それはなぜ?」問題を行きつ戻りつしながら、途中ちらりと「“人に合わせるの“人”って?」問題が垣間見える‥‥‥という感じでしょうか。

 

合わせちゃいけない場合として、「なるほど!それだ!」と思ったのが、いじめと選挙の例。

ですが、その一方で、「いじめは悪いことだからしちゃいけないのであって、“合わせちゃいけない”とは別問題なのでは?」という参加者からの鋭い問いかけも。 

 「悪いことだからやっちゃダメ」じゃなく「合わせちゃいけない」と言えるとしたら、どんな場合でそれはなぜ?

そう考えるなかで、

  • 問題は、「〜だからここは合わせよう」と自分で判断して合わせる場合ではなく、その思考プロセスなしにもしくは自分の判断に反して、表面的に行動を人に合わせる場合にあるのではないか
  • 社会規範や地域の慣習など、「人に合わせる」の「人」の指す範囲は必ずしも特定の誰かではなく、人がつくったものも含まれる

といったポイントが浮かび上がってきました。

 

会社や仕事での「合わせちゃいけない」問題も興味深かった!

途中までは、どんなときは人に合わせて、どんなときは合わせちゃいけないのか、具体的な仕事内容がわからないとどこから掘くか難しいな〜と思っていたんですが、終盤になって、人に合わせてLINEを使うか否かで、興味深いお話が。

コロナ禍のなか生徒に合わせた連絡手段として使うようになった先生と、情報の仕事に携わる者として使わない派の方と。

一方は合わせるという判断、もう一方は合わせないという判断なんだけど、どちらもいかに自分の仕事を誇りをもって全うするか考えたうえでのことなんだなぁ、と。

また、後者の方に「それは、“合わせたくない”ではなく“合わせちゃいけない”なんですか?」と尋ねたところ、少し考えて「“合わせちゃいけない”だと思います。情報の仕事に携われる者としての矜持のようなので」とおっしゃったのが印象的でした。

 

対話の中盤にも別の方から「人に合わせてばかりいたり、大事なところを合わせてしまうと、自分が“からっぽ”になってしまう」という言葉が出て気になっていたのですが、ああ、そういうことか、と。

そう言われてみれば、“てつがくやさん”にも、基本的にご要望に合わせて哲学対話を提供しているわけですが、「これをやっちゃうと“てつがくやさん”じゃなくなっちゃうから、無理」というポイントがある。

職業的なものにしろそうでないにしろ、ここを合わせちゃうと、自分のアイデンティティ(自分らしさというより、「自分が○○である」ということそのもの)が崩れてしまう、そういうポイントがあるんだな、と思いました。

 

他にも「合う」と「合わせる」のちがいなども興味深かったけれど、今回はこの辺りで。

 

ご参加くださったみなさん、antenna Coffee Houseさん、ありがとうございました。

 

 

次回の哲学カフェ尾道は6月13日(日)。

テーマは「平等は、どこまで必要ですか?」です。

詳細やお申し込み情報はこちら↓↓をどうぞ。

www.facebook.com

 

 

哲学対話でケアを重視するのはなぜ?

先日、いわて哲学カフェのオオマツさんとメッセージをやりとりする機会があり、こんなご質問をいただきました。

 

人伝に、松川さんは哲学カフェで「ケア」を重視している、というお話を伺っております。私は専攻が「臨床心理学(心の問題を扱う心理学)」なため、哲学カフェの進行でも「受容的な」姿勢を取るように心掛けているのですが、松川さんの仰る「ケアを重視する」とは、どう言ったことなのでしょうか。(いわて哲学カフェ オオマツさん)

 

わたし自身、何度か考えてきた問題ですが、書き残す機会がありませんでした。

オオマツさんに了承も得られたので、オオマツさんへのお返事を(ほんの少し補足を加えて)ここに転載しておきます。

 

===以下、まつかわのお返事===

 

わたし自身は、ケアより哲学の「真理を探究する」ほうを重視しているので、哲学プラクティショナーのなかではケアを重視しないほうだと思っています。

わたしよりもっとケアを重視している哲学プラクティショナーは、たくさんいます。

 

たとえば、こちらの方々とか。

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)
 

 

ただ、哲学の「真理を探究する」という姿勢の結果、ケアを重視しているように見えることはあるかもしれません。

結果的にそうなる理由は、2つ考えられます。

 

1)真理を探求するには多角的にテーマについて検討する必要があるため、参加者が他の参加者への反論や矛盾も含め、自分の感じたこと考えたことを忌憚なく話しやすいように最大限配慮していること。

席の配置、テーマ設定、参加者への声かけなどだけでなく、(効果があるかどうかは不明ですが)服装なども話しかけやすいよう気をつけています。

そうした工夫が、側からみると「受容的な態度」と見えるかもしれません。

実際、参加者のなかには自分がまだ知らない真理が埋まっているという姿勢をもっています。

が、真理探究が目的なので、ときには参加者にツッコミを入れたり反論を述べたりすることもありますし、話の長い参加者がいたら途中で話を遮りストップをかけることもあります。

 

2)もうひとつの理由は、真理探究の「真理」のなかには、常に倫理的なものも含まれると考えており、対話の内容だけでなく、対話中の自分の態度やふるまいが適切かどうかという判断が働いているからかもしれません。

特に学校の授業や職場研修など、非自発的な参加者が含まれる場合は、参加したくない人を付き合わせること自体が倫理的に許されるかどうかという問題が含まれるので、非自発的な参加者の関心に寄り添うような対話をと心がけています。

 

どちらの場合も、受容的な態度があるとすれば、真理探究の結果であるということになります。

 

===オオマツさんへのお返事はここまで。===

 
 (追記2021.4.16)
オオマツさんも、わたしの回答に近いものを感じてらっしゃるそうです。
わたしは受容的な姿勢というのはあまり意識したことがないので、ちょっと意外でした。(わたしもウェルカムな姿勢はあるとは思うのですが)
またじっくりお話できるといいな。
 
===以下、おまけ===
 
書きながら、マシュー・リップマンの「ケア的思考」はどんなだったっけ?とおもって、確認してみました。
 
探求の共同体 ─考えるための教室─

探求の共同体 ─考えるための教室─

 

 

教育への関心が薄いのであまり真面目に読んでこなかったけれど(本を読むより実践優先で生きてるので)、改めて読むと、わたしの考えはリップマンと重なるところが多い気もします。(って、これ、この本の監訳者の一人である土屋さんにも指摘されたことがある気がするなぁ。)

 

ケア的な思考には二つの意味がある。一つには、気遣いをもって私たちの思考の主題を考えるという意味で、もう一つは、思考の方法について関心を持つことである。(マシュー・リップマン『探求の共同体:考えるための教室』p.378)

 

思考教育への教育学的なアプローチは、情緒的思考を含めねばならない。それは、単に民主主義的多元主義への漠然として忠誠に敬意を表するという理由だけではなく、他の種類の思考のあり方をきちんと認めていないと、既知のタイプの思考ばかりを扱うという浅薄なことになってしまうからである。(マシュー・リップマン『探求の共同体:考えるための教室』pp.385-386)

 

考え方としてはリップマンに近いかもしれない。

けれど、リップマンに触れつつそれとは別の次元に辿り着いたほんまさん、高橋さんの背中をみて一緒に実践しながら哲学プラクティスを学んできたので、お二人の姿勢が実践に染み込んでいたりもすると思います。

 

matsukawaeri.hatenablog.com