昨日4月11日(日)は、2ヶ月に1度の哲学カフェ尾道!
antenna Coffee Houseに集った会場組のみなさんと、オンライン参加者とをつなぐハイブリッド開催の2回目でした。
前回は、「進行役なんてたいして見えなくていいだろう。参加者優先で!」と私はカメラに入ったり入らなかったりだったのですが、オンライン参加者の方にありがたくも「できれば松川さんの動きも見えるとうれしい」というお言葉をいただいたので、マスターのPC+カメラから参加者のみなさんを写すと同時に、わたし持参のPCで進行役を写す、2カメラ体制で。(会場がどういう配置になってるのか、写真撮っておけばよかった!)
オンラインの方が話す時、参加者のみなさんはわたしの背後にあるスクリーンを見てるのに、わたしだけ自分のPCを見るという視線のズレがやや気になるところですが、antennaさんには2カメラが合ってるかも。
同じハイブリッド開催でも、会場によって合うやり方がちがって、大変だけど、おもしろい!
そんなコロナ禍で絶賛試行錯誤中の今回のテーマは、「人に合わせちゃいけないのは、どんな時?」でした。
コロナ禍における合わせる/合わせない問題からはじまって、
仕事での合わせる/合わせない問題、
慣習や同調圧力の強い地域で合わせないと浮いちゃう問題、
「合わせなさい」と言われたことならあるし、合わせたくないことがあるのもわかるけど、合わせちゃいけないってどういうこと?
そもそも合わせちゃいけない時って、本当にある?etc...
ざっくりふりかえるなら、「合わせるってどういうこと?」問題と、「合わせちゃいけないってどういうこと?それはなぜ?」問題を行きつ戻りつしながら、途中ちらりと「“人に合わせるの“人”って?」問題が垣間見える‥‥‥という感じでしょうか。
合わせちゃいけない場合として、「なるほど!それだ!」と思ったのが、いじめと選挙の例。
ですが、その一方で、「いじめは悪いことだからしちゃいけないのであって、“合わせちゃいけない”とは別問題なのでは?」という参加者からの鋭い問いかけも。
「悪いことだからやっちゃダメ」じゃなく「合わせちゃいけない」と言えるとしたら、どんな場合でそれはなぜ?
そう考えるなかで、
- 問題は、「〜だからここは合わせよう」と自分で判断して合わせる場合ではなく、その思考プロセスなしにもしくは自分の判断に反して、表面的に行動を人に合わせる場合にあるのではないか
- 社会規範や地域の慣習など、「人に合わせる」の「人」の指す範囲は必ずしも特定の誰かではなく、人がつくったものも含まれる
といったポイントが浮かび上がってきました。
会社や仕事での「合わせちゃいけない」問題も興味深かった!
途中までは、どんなときは人に合わせて、どんなときは合わせちゃいけないのか、具体的な仕事内容がわからないとどこから掘くか難しいな〜と思っていたんですが、終盤になって、人に合わせてLINEを使うか否かで、興味深いお話が。
コロナ禍のなか生徒に合わせた連絡手段として使うようになった先生と、情報の仕事に携わる者として使わない派の方と。
一方は合わせるという判断、もう一方は合わせないという判断なんだけど、どちらもいかに自分の仕事を誇りをもって全うするか考えたうえでのことなんだなぁ、と。
また、後者の方に「それは、“合わせたくない”ではなく“合わせちゃいけない”なんですか?」と尋ねたところ、少し考えて「“合わせちゃいけない”だと思います。情報の仕事に携われる者としての矜持のようなので」とおっしゃったのが印象的でした。
対話の中盤にも別の方から「人に合わせてばかりいたり、大事なところを合わせてしまうと、自分が“からっぽ”になってしまう」という言葉が出て気になっていたのですが、ああ、そういうことか、と。
そう言われてみれば、“てつがくやさん”にも、基本的にご要望に合わせて哲学対話を提供しているわけですが、「これをやっちゃうと“てつがくやさん”じゃなくなっちゃうから、無理」というポイントがある。
職業的なものにしろそうでないにしろ、ここを合わせちゃうと、自分のアイデンティティ(自分らしさというより、「自分が○○である」ということそのもの)が崩れてしまう、そういうポイントがあるんだな、と思いました。
他にも「合う」と「合わせる」のちがいなども興味深かったけれど、今回はこの辺りで。
ご参加くださったみなさん、antenna Coffee Houseさん、ありがとうございました。
次回の哲学カフェ尾道は6月13日(日)。
テーマは「平等は、どこまで必要ですか?」です。
詳細やお申し込み情報はこちら↓↓をどうぞ。