てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

哲学対話でケアを重視するのはなぜ?

先日、いわて哲学カフェのオオマツさんとメッセージをやりとりする機会があり、こんなご質問をいただきました。

 

人伝に、松川さんは哲学カフェで「ケア」を重視している、というお話を伺っております。私は専攻が「臨床心理学(心の問題を扱う心理学)」なため、哲学カフェの進行でも「受容的な」姿勢を取るように心掛けているのですが、松川さんの仰る「ケアを重視する」とは、どう言ったことなのでしょうか。(いわて哲学カフェ オオマツさん)

 

わたし自身、何度か考えてきた問題ですが、書き残す機会がありませんでした。

オオマツさんに了承も得られたので、オオマツさんへのお返事を(ほんの少し補足を加えて)ここに転載しておきます。

 

===以下、まつかわのお返事===

 

わたし自身は、ケアより哲学の「真理を探究する」ほうを重視しているので、哲学プラクティショナーのなかではケアを重視しないほうだと思っています。

わたしよりもっとケアを重視している哲学プラクティショナーは、たくさんいます。

 

たとえば、こちらの方々とか。

こどものてつがく- ケアと幸せのための対話 (シリーズ臨床哲学3)
 

 

ただ、哲学の「真理を探究する」という姿勢の結果、ケアを重視しているように見えることはあるかもしれません。

結果的にそうなる理由は、2つ考えられます。

 

1)真理を探求するには多角的にテーマについて検討する必要があるため、参加者が他の参加者への反論や矛盾も含め、自分の感じたこと考えたことを忌憚なく話しやすいように最大限配慮していること。

席の配置、テーマ設定、参加者への声かけなどだけでなく、(効果があるかどうかは不明ですが)服装なども話しかけやすいよう気をつけています。

そうした工夫が、側からみると「受容的な態度」と見えるかもしれません。

実際、参加者のなかには自分がまだ知らない真理が埋まっているという姿勢をもっています。

が、真理探究が目的なので、ときには参加者にツッコミを入れたり反論を述べたりすることもありますし、話の長い参加者がいたら途中で話を遮りストップをかけることもあります。

 

2)もうひとつの理由は、真理探究の「真理」のなかには、常に倫理的なものも含まれると考えており、対話の内容だけでなく、対話中の自分の態度やふるまいが適切かどうかという判断が働いているからかもしれません。

特に学校の授業や職場研修など、非自発的な参加者が含まれる場合は、参加したくない人を付き合わせること自体が倫理的に許されるかどうかという問題が含まれるので、非自発的な参加者の関心に寄り添うような対話をと心がけています。

 

どちらの場合も、受容的な態度があるとすれば、真理探究の結果であるということになります。

 

===オオマツさんへのお返事はここまで。===

 
 (追記2021.4.16)
オオマツさんも、わたしの回答に近いものを感じてらっしゃるそうです。
わたしは受容的な姿勢というのはあまり意識したことがないので、ちょっと意外でした。(わたしもウェルカムな姿勢はあるとは思うのですが)
またじっくりお話できるといいな。
 
===以下、おまけ===
 
書きながら、マシュー・リップマンの「ケア的思考」はどんなだったっけ?とおもって、確認してみました。
 
探求の共同体 ─考えるための教室─

探求の共同体 ─考えるための教室─

 

 

教育への関心が薄いのであまり真面目に読んでこなかったけれど(本を読むより実践優先で生きてるので)、改めて読むと、わたしの考えはリップマンと重なるところが多い気もします。(って、これ、この本の監訳者の一人である土屋さんにも指摘されたことがある気がするなぁ。)

 

ケア的な思考には二つの意味がある。一つには、気遣いをもって私たちの思考の主題を考えるという意味で、もう一つは、思考の方法について関心を持つことである。(マシュー・リップマン『探求の共同体:考えるための教室』p.378)

 

思考教育への教育学的なアプローチは、情緒的思考を含めねばならない。それは、単に民主主義的多元主義への漠然として忠誠に敬意を表するという理由だけではなく、他の種類の思考のあり方をきちんと認めていないと、既知のタイプの思考ばかりを扱うという浅薄なことになってしまうからである。(マシュー・リップマン『探求の共同体:考えるための教室』pp.385-386)

 

考え方としてはリップマンに近いかもしれない。

けれど、リップマンに触れつつそれとは別の次元に辿り着いたほんまさん、高橋さんの背中をみて一緒に実践しながら哲学プラクティスを学んできたので、お二人の姿勢が実践に染み込んでいたりもすると思います。

 

matsukawaeri.hatenablog.com

 

差別ってなに?@ヨノナカ実習室

4月3日(土)はヨノナカ実習室主催の対話する哲学教室。

こちらのテキストから今回は第9章です。

前回と同じく会場とオンラインのハイブリッド開催で、

まずは音声確認がてら、ひとりずつ「これって差別じゃないかなぁ」もしくは「これは差別じゃない」と思うことを。

 

「お風呂は女があと」のいえ、

特別支援学級

「クィーンサイズ」「シンデレサイズ」が区切られた靴売り場、

色鉛筆の「肌色」問題(日本では「肌色」がなくなって「薄橙」になってるけど、海外には何色も「肌色」があるセットもあるとか)…。

 

それと、テキストのマルコムXの自伝とを行きつ戻りつしつつ、

 

配慮が差別になっちゃうのはどんなとき?

差別と区別はどうちがう?

そもそも、なぜ区別するの?

 

「差別」と「区別」と「配慮」を中心にぐるぐるぐるぐる。

 

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後半は、コーネルの「積極的差別是正措置」とロールズの「無知のヴェール」をご紹介。

ここでもやっぱり、

「配慮をずるいと感じてしまうのはなぜだろう?」

「それでもやっぱり、区別がなくないのか?」

と「差別」と「区別」と「配慮」がぐるぐるぐるぐる。

 

あと、対話の中心ではなかったと思うけど、個人的に、

「コーネルさんはなぜこんなもってまわったわかるにくい表現をするのか?」、「コーネルさんよりロールズさんの考えに余裕が感じられるのはなぜだろう?」

といった疑問にも、考えさせられました。

既存の差別を強化することなく差別について語ることができるか?

語る人の立場は考えや言葉の意味にどう影響するか?

差別について語ることの難しさを、コーネルやロールズも感じていたかもしれない。

そんなことを感じました。

 

ご参加くださったみなさん、ヨノナカ実習室さん、ありがとうございました。

 

 

「常識と非常識」@Ziba Platform

ブログでのレポートが遅れがちですが、最近、新しい企画やオンラインセミナーで、このブログの備忘録が役立つこともあるので、ちゃんと書いておこう。

 

3月27日(土)は、2ヶ月に1回開催しているZiba Platform主催のオンライン哲学カフェでした。

テーマは「常識と非常識」。

 

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2021.3.27「常識と非常識」松川メモ

 

常識は時によって変わる

常識は場所によって変わる

常識には理由がある?ない?

常識は文化?

常識は役に立つ?常識がないと何が困る?

初対面の人と親しい人で、常識的にふるまうかどうか変わる?

非常識は失礼?

非常識にあこがれるのはなぜ?

常識は決まりごと?

 

 

どの論点もそれぞれに盛り上がりましたが、どの論点から掘っていっても、いつのまにか「場所や時によって変わる」というポイントに舞い戻ってくるのが、おもしろい!

それに関連して、なかでも「common sens(常識)のcommonというのは、囲われてはじめて成り立つものだ」という指摘が、新鮮で印象に残りました。

これまでも似たようなテーマで哲学対話したことはあると思うけど、これは私が参加・進行したなかでは初めての指摘だったんじゃないかなぁ。

 

また、常識に理由があるかどうか、その理由を共有できてるかどうか、理由があるものを“常識”と呼ぶべきかどうかも、なかなか気になるポイントでした。

実際、終盤に「図書館へ本の返却が遅れるのは、ありかなしか?」という話になり、それぞれの意見を詳しく聞いてみるとそれぞれに理由はある。

けど、どの理由もよく聞いてみるまでは共有できてない。

「これぐらい常識でしょ」と誰かがおもっていても、その理由までは共有できてないし、「常識」とは言えないなぁということを対話のなかで実感しました。

また、まちなかライブラリーのひとつとして図書館的な役割も担っている主催者のZiba Platformさんにとっても、具体的な気づきやヒントのある対話となったようです。

 

 

 

次回のZiba Platformでの哲学カフェは、5月。

次回はちょっと特別な企画となる予定です。お楽しみに♪