てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「嘘をつくのはいつも悪いことか?」@ヨノナカ実習室

1月30日(土)の午後は、ヨノナカ実習室主催の対話する哲学教室!

コロナの影響による延期を経て、オンライン+会場のハイブリッド開催することに。

 

他のところのハイブリッド開催では、進行役のわたしは会場にいて、会場で開催される哲学カフェをオンラインでもおすそ分け‥‥‥という感じなんですが、今回は、オンラインで参加できる人はオンラインでお願いします、オンラインに自信がない人は会場でサポートします‥‥‥という趣旨だったので、講師兼進行役のわたしもオンラインで。

それに、ヨノナカ実習室って、友だちの家に遊びにきた!って感じで居心地が良すぎて和気藹々としちゃうからね。

進行役のわたしがそっちで和気藹々としすぎちゃうと、オンライン参加者がさみいしいかと思いまして、会場のほうはヨノナカ実習室のスミさんにお任せすることに。

会場とオンラインどちらをメインとすべきかも、ケースバイケースで判断しなきゃね。

 

というわけで、前置きが長くなりましたが、『中学生からの対話する哲学教室』をテキストに、毎回1つののテーマを取り上げていく対話する哲学教室。

第2回のテーマや「嘘をつくのはいつも悪いことか?」でした。

高専の授業でも、毎年大人気のテーマです。

 

まず、テキストの内容に入る前に、音声確認もかねて、テーマについて一言ずつ。

テーマに関する子育ての悩みや、「言わずに黙ってることと嘘をつくことは同じ?」「約束を守れないことと嘘をつくことは同じ?」といった問いがポロポロ。

これ、いいですね! 次回もやろう。

哲学カフェでも時々やるけど、この対話教室はテキストを使うので、だからこそ、テキストの内容に入るまえに各自の関心を確認しておくって大事かも。

 

そして、前半。テキストの対話を読んで、感想を語り合います。

いとことの約束があるのに雅彦さん(意中の相手?)からお誘いを受けて、「病気になっちゃった」といとこに嘘をついちゃいたいけどダメだよなぁと揺れる祥子と、「嘘がバレなきゃいいじゃん」とそそのかす淳‥‥‥

単なる感想というより、「もし祥子の立場だったら、自分はどうする?」という視点から、いろいろ出てきましたよ。

 

「いとことの約束をやぶったら、どれぐらい相手が困るかによる」

「雅彦さんとの関係性にもよるかも。千載一遇のチャンスだったら、断れない!」

「わたしだったら、嘘なんてつかず、正直にいとこに相談する」

「いやでも、正直に言うかどうか、いとことの距離感によるかなぁ」

「嘘をついていとことの約束を破ったことが雅彦さんに知られたら、恋は実らないのでは?」

 

‥‥‥などなど。

まず、大前提として「いとことの約束を守るかどうか?」のところでも意見が分かれるわけですが、雅彦さんの誘いを優先するにしても「嘘をつく」という選択肢を選ぶ理由は?というところが、いろんな方向から吟味された気がします。

「相手との関係性による」についても、「よその人には嘘をつかないけど、家族には嘘をついちゃう」という人もいれば、「親しい人ほど嘘はつきにくい」という人も。

 

そして、休憩をはさんでの(休憩時間も盛り上がってたので、みなさん休憩できたのか不明ですが)、後半。

テキストでは善悪に関する2大哲学として、ミルの功利主義とカントの義務論が紹介されてるわけですが、わたしはここにミルの師である功利主義創始者ベンサムも加えてご紹介。

「わたしはミル派かなぁ」「カントの言うこと、すごくわかる!」など、それぞれに共感したり相違を感じたりしながら、子育てやら身近な経験を思い出すなかで、次第にテキストにはないあるポイントに焦点があたります。

 

それは、「自分に嘘をつく」ということ。

 

自分の都合で他者につく嘘がある一方で、

他者を大切にするために他者につく嘘がある。

さらに、それとは別に、他者に嘘はついたわけじゃないけれど、他者を大切にしようとして、結果的に自分自身に嘘をついてしまっていることもあるのでは?

 

その問題が鮮明に浮かび上がったのが、ラーメンとチャーハンの話でした。

自分は本当はラーメンが食べたい。

けど、子どもがチャーハンを食べたがっているから、チャーハンをつくる。*1

そのとき、自分は嘘をついていないといえるか?

 

冒頭にでてた「言わないでいるのと、嘘をつくのとは同じ?」という疑問が再びここで頭をかすめつつ、「自分のために言わない」ということと「相手のために言わない」こととのちがいも解きほぐしながら、みなさん自分自身の経験と照らし合わせた対話が繰り広げられました。

 

功利主義には功利主義の、カント派にはカント派の、自分を大切にする仕方があるのかもしれない。

功利主義なら、快楽計算に自分自身の快楽も忘れず入れること。

カント派なら、他者だけでなく自分自身にも嘘をつかないこと。

みなさんのお話をききながら、そんなことを考えました。

 

これまで、大阪や明石高専でなんども取り上げてきた内容でしたが、この「自分に嘘をつく」「自分を大切にする」という視点にここまで焦点があたり掘り下げられたのは初めてだったので、わたしもとても興味深かったです。

 

ご参加くださったみなさん、ヨノナカ実習室さん、ありがとうございました。

 

 

ヨノナカ実習室さんのブログにも別の角度から味わい深いふりかえりがありますので、気になる方はこちら↓↓をどうぞ。

yononaka-jsh.hatenablog.com

 

 

第1回は第1部「美」から「愛とはなにか」(第1章)

第2回は第2部「真」から「嘘をつくのはいつも悪いことか」(第6章)

をとりあげたので、第3回は第3部「正義」からどれを取り上げようかと考え中です。

 

「そのテキスト、気になる!」という方はこちら↓↓よりどうぞ。

中学生からの対話する哲学教室

中学生からの対話する哲学教室

 

 

 

 

*1:お店じゃなく家で食べるときは別々のものをつくるのは大変だし、お子さんが小さいと外食でも一人1品は多すぎるからそろえようって場面はでてくるのでしょう。

「悩んじゃダメ?」@Ziba Platform

だいぶ遡って、先月1月23日のZiba Platform主催のオンライン哲学カフェのふりかえり。

実は、いったん8割がた書けてたんだけど、ネット回線が途中で途切れて消えちゃって、凹んでたんだけど、なんとか思い出そう。

 

テーマは「悩んじゃダメ?」。

 

フライパンをいつ買い換えるかという日常の悩みから、進路の悩み、家族の悩み、死に関する悩み‥‥‥。

 

いくつかの例が出つつ、人によってちがいが大きくでたのが、

悩みは解決すれば消える派と、悩みは尽きない派のちがいではないでしょうか。

さらに、悩みは尽きない派も2派に分かれて、

そのうちのひとつが、ひとつ解決してもまた別の悩みを探す派。

そして、もうひとつは、ひとつの根本的な悩みがずーっと居座ってるという人たち。

さらにさらに、後者のなかにも、場面や形を変えていろんなところにでてくる小さな悩みも突き詰めれば大きな根本的な悩みにつながっているという人と、日々の細々とした悩みとは別に「自分はいつか死ぬ」という解決し得ない悩みが常にあるという人と。

 

いろんな人がいるなかで、特にちがいが鮮明だったのは、悩みは解決すれば消える派と、ひとつ解決してもまた別の悩みを探す派。

前者の人たちにとっては、「え、悩むってすごくエネルギーがいるのに、わざわざ自分から探すの!?」とびっくり。

 

この両者のちがいから、

悩みの優先順位に関する指摘とともに、「悩むってどいうこと?」という問いが浮かび上がりました。

“悩む”と“迷う”や“考える”、“探る”とのちがい、

なかでも“探究する”と“悩む”はちがうのかどうかに注目が集まります。

悩みはなるべくないほうがいいとおもうひとから見ると、「自ら悩みを探しにいっている」という人たちは、“悩む”というより“探究している”ように見える。

しかし、その境界線は明確かというと???

 

終盤には、ここに“モヤモヤ”に関する考察もからんできます。

「哲学カフェでは、“モヤモヤ”を大事にしているが、それはなぜ?」というある参加者からの疑問に、進行役のわたしだけでなく参加者のみなさんも、哲学カフェで話すと悩みがどう変化するのか、モヤモヤを共有するとはどいうことか、様々な考えを聞かせてくれました。

ここで紹介したい気もするけれど、それぞれの言葉が味わい深く、再現するのが難しい‥‥‥。

なので、それを味わえるのは参加した人だけの特権ということにさせていただきましょう。

 

ご参加くださったみなさん、 Ziba Platformのみなさん、ありがとうございました。

 

 

Ziba Platforの次回の哲学カフェは、3月27日(土)。

テーマは、「常識と非常識」です。

気になる方は、こちら↓↓をどうぞ。

www.facebook.com

 

森会長の例の発言が、哲学カフェで出たら?

哲学カフェのレポートもたまってるんだけど、

東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の例の発言が、もし哲学カフェで出たら?

ということを考えはじめちゃったので、書いちゃいます。

 

個人的には、このニュースを読んで、「はぁ!? またまた、なに言うとん? こんなやつに会長やらせたらあかんやろ!」と思いました。

こんな人しか会長できる人がいないのなら、日本でオリンピックやらんほうがいいとも思ってます。(日本の選手のみなさんは日本でオリンピック実現してほしいだろうので、こんなふうに思うのも心苦しいけれど。)

 

 

でも、この森会長がしたような発言が哲学カフェでも出る可能性は十分あるし、

こういう発言がでる哲学カフェは悪い哲学カフェかというと、

必ずしもそんなことはないとも思うのです。

たとえば、地域住民のために公民館で開いてる哲学カフェで、地域住民として参加した森さんがそう発言するのは、全然ありじゃないでしょうか。

この場合の「全然あり」というのは「うれしい」という意味ではなく、「それぐらいの発言の自由は哲学カフェにあると思うよ」ということですが。

 

ただ、同時に、言いっ放しにさせちゃいけない発言だな、とも思う。

 

もし、その場に居合わせたら、あれこれつっこんできいてみたい。

「え、どうしてそう思うんですか?」

「わきまえるってどういうこと?」

「ちなみに、あなたのその発言はわきまえた発言ですか? そう思う理由は?」って。

 

個人的には、「たとえ内心そう思ったとしても、それは言わんほうがええと思うで」派ですが、

それはマツカワさん個人の考え方であって、哲学カフェの参加者がその考えに沿う必要はない。

 

しかしその一方で、進行役として看過してはいけないのではないか、と思わせる発言でもある。

それは、哲学が真理を探求するものだからであり、その真理には単に現状がどうあるかという事実だけでなく「どうあるべきか」という当為も含まれるからであり、さらにその場や自分自身ががどうありどうあるべきかというメタ的な真理も含まれるから。

 

哲学カフェが哲学的であるためには、そういうところがとても大事な気がする。

 

 

もちろん、看過してはいけないといっても、進行役が気づかずスルーしてしまうこともある。

人間だもの。

だからこそ参加者のみなさんの協力が大切で、

だからこそ参加者のみなさんの協力を促したりお願いすることが、

“てつがくやさん”の大切な仕事のひとつになりえるのだとおもう。

 

そして、「わきまえろ」というのと、協力を促すこととはちがう。

わたしも進行してるから、発言が予想より多く出すぎて会議の時間が伸びたら、焦っちゃう気持ちはわかる。

でもだからこそ、議題と時間と出席者数のバランスを調整したり(男女比の問題じゃなく、議題が多すぎたり時間が短すぎたり全体の出席者数が多すぎたりする可能性もある)、短い時間で多様な意見をきけるようにする工夫が必要なんじゃないの?

それができないなら、会議をとりしきる側が反省しなきゃいけないし、できる人に知恵を借りたり、協力してもらう必要があるんじゃないの?

その反省や協力をお願いすることすらもできないなら、会議をとりしきる側は降りて、いち出席者として発言したいことを発言するにとどめておいたほうがいいとおもうなぁ。