てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

「悩んじゃダメ?」@Ziba Platform

だいぶ遡って、先月1月23日のZiba Platform主催のオンライン哲学カフェのふりかえり。

実は、いったん8割がた書けてたんだけど、ネット回線が途中で途切れて消えちゃって、凹んでたんだけど、なんとか思い出そう。

 

テーマは「悩んじゃダメ?」。

 

フライパンをいつ買い換えるかという日常の悩みから、進路の悩み、家族の悩み、死に関する悩み‥‥‥。

 

いくつかの例が出つつ、人によってちがいが大きくでたのが、

悩みは解決すれば消える派と、悩みは尽きない派のちがいではないでしょうか。

さらに、悩みは尽きない派も2派に分かれて、

そのうちのひとつが、ひとつ解決してもまた別の悩みを探す派。

そして、もうひとつは、ひとつの根本的な悩みがずーっと居座ってるという人たち。

さらにさらに、後者のなかにも、場面や形を変えていろんなところにでてくる小さな悩みも突き詰めれば大きな根本的な悩みにつながっているという人と、日々の細々とした悩みとは別に「自分はいつか死ぬ」という解決し得ない悩みが常にあるという人と。

 

いろんな人がいるなかで、特にちがいが鮮明だったのは、悩みは解決すれば消える派と、ひとつ解決してもまた別の悩みを探す派。

前者の人たちにとっては、「え、悩むってすごくエネルギーがいるのに、わざわざ自分から探すの!?」とびっくり。

 

この両者のちがいから、

悩みの優先順位に関する指摘とともに、「悩むってどいうこと?」という問いが浮かび上がりました。

“悩む”と“迷う”や“考える”、“探る”とのちがい、

なかでも“探究する”と“悩む”はちがうのかどうかに注目が集まります。

悩みはなるべくないほうがいいとおもうひとから見ると、「自ら悩みを探しにいっている」という人たちは、“悩む”というより“探究している”ように見える。

しかし、その境界線は明確かというと???

 

終盤には、ここに“モヤモヤ”に関する考察もからんできます。

「哲学カフェでは、“モヤモヤ”を大事にしているが、それはなぜ?」というある参加者からの疑問に、進行役のわたしだけでなく参加者のみなさんも、哲学カフェで話すと悩みがどう変化するのか、モヤモヤを共有するとはどいうことか、様々な考えを聞かせてくれました。

ここで紹介したい気もするけれど、それぞれの言葉が味わい深く、再現するのが難しい‥‥‥。

なので、それを味わえるのは参加した人だけの特権ということにさせていただきましょう。

 

ご参加くださったみなさん、 Ziba Platformのみなさん、ありがとうございました。

 

 

Ziba Platforの次回の哲学カフェは、3月27日(土)。

テーマは、「常識と非常識」です。

気になる方は、こちら↓↓をどうぞ。

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森会長の例の発言が、哲学カフェで出たら?

哲学カフェのレポートもたまってるんだけど、

東京五輪パラリンピック組織委員会森喜朗会長の例の発言が、もし哲学カフェで出たら?

ということを考えはじめちゃったので、書いちゃいます。

 

個人的には、このニュースを読んで、「はぁ!? またまた、なに言うとん? こんなやつに会長やらせたらあかんやろ!」と思いました。

こんな人しか会長できる人がいないのなら、日本でオリンピックやらんほうがいいとも思ってます。(日本の選手のみなさんは日本でオリンピック実現してほしいだろうので、こんなふうに思うのも心苦しいけれど。)

 

 

でも、この森会長がしたような発言が哲学カフェでも出る可能性は十分あるし、

こういう発言がでる哲学カフェは悪い哲学カフェかというと、

必ずしもそんなことはないとも思うのです。

たとえば、地域住民のために公民館で開いてる哲学カフェで、地域住民として参加した森さんがそう発言するのは、全然ありじゃないでしょうか。

この場合の「全然あり」というのは「うれしい」という意味ではなく、「それぐらいの発言の自由は哲学カフェにあると思うよ」ということですが。

 

ただ、同時に、言いっ放しにさせちゃいけない発言だな、とも思う。

 

もし、その場に居合わせたら、あれこれつっこんできいてみたい。

「え、どうしてそう思うんですか?」

「わきまえるってどういうこと?」

「ちなみに、あなたのその発言はわきまえた発言ですか? そう思う理由は?」って。

 

個人的には、「たとえ内心そう思ったとしても、それは言わんほうがええと思うで」派ですが、

それはマツカワさん個人の考え方であって、哲学カフェの参加者がその考えに沿う必要はない。

 

しかしその一方で、進行役として看過してはいけないのではないか、と思わせる発言でもある。

それは、哲学が真理を探求するものだからであり、その真理には単に現状がどうあるかという事実だけでなく「どうあるべきか」という当為も含まれるからであり、さらにその場や自分自身ががどうありどうあるべきかというメタ的な真理も含まれるから。

 

哲学カフェが哲学的であるためには、そういうところがとても大事な気がする。

 

 

もちろん、看過してはいけないといっても、進行役が気づかずスルーしてしまうこともある。

人間だもの。

だからこそ参加者のみなさんの協力が大切で、

だからこそ参加者のみなさんの協力を促したりお願いすることが、

“てつがくやさん”の大切な仕事のひとつになりえるのだとおもう。

 

そして、「わきまえろ」というのと、協力を促すこととはちがう。

わたしも進行してるから、発言が予想より多く出すぎて会議の時間が伸びたら、焦っちゃう気持ちはわかる。

でもだからこそ、議題と時間と出席者数のバランスを調整したり(男女比の問題じゃなく、議題が多すぎたり時間が短すぎたり全体の出席者数が多すぎたりする可能性もある)、短い時間で多様な意見をきけるようにする工夫が必要なんじゃないの?

それができないなら、会議をとりしきる側が反省しなきゃいけないし、できる人に知恵を借りたり、協力してもらう必要があるんじゃないの?

その反省や協力をお願いすることすらもできないなら、会議をとりしきる側は降りて、いち出席者として発言したいことを発言するにとどめておいたほうがいいとおもうなぁ。

「見栄を張るのはなぜ?」@岡山市立高島公民館

あっというまに節分ですね。

忘れぬうちに、1月の足跡を残さねば。

 

高島公民館の哲学カフェ「ふたばトーク」の1月のお題は、参加者が提案してくださたなかから、「見栄を張るのはなぜ?」。

もう15年以上も哲学カフェをやってるのに、「見栄」をテーマに対話するのは初めて!ワクワク。

 

対話前は「わたし、見栄を張ることなんてあるかなぁ」なんて思っていたのですが、なんのその。

いい服、いい車、

年賀状に、お歳暮・お中元、そのお返し、

1,600円のランチ

おすそ分けするときの紙袋は百貨店の紙袋、

知人を家に招くときだけ掃除がんばっちゃう、

‥‥‥などなど身近な例をきくうちに、「その見栄なら、わたしも張ったことあるわ!」というものがボロボロでてくる。

まずこれが、今回のわたしのファースト・びっくり。

 

見栄が「なめられたくない」「一目置かれたい」という気持ちや、他者との比較から生じることと同時に、「背伸びし続けるのは苦しい」といったマイナス面と、「競争のなかで向上心が育まれる」というプラス面もが指摘されました。

 

また途中で、「“プライド”や“自信”、“自慢”とのちがいは?」という疑問も。

ここから、それらと異なる“見栄”の特徴として、「実際の自分より大きく見せようとすること」「一時的にはできるけど、ずっとは続けられないこと」が挙げられました。

 

「純粋にフェラーリが好きでフェラーリに乗ってる人は、たとえ他を節約してフェラーリに乗っているとしても、見栄を張ってるわけじゃない。ただ好きなだけ」

「でも、他の人からは見栄を張ってるように見えることもある」

というやりとりもおもしろかったなぁ。

そこから浮かび上がった「見栄を張ってるのかどうか、誰がどうやって判断するの?他人が見てわかる?」という疑問も。

 

そして、終盤、「歌舞伎の“見栄をきる”の見栄も同じか?」という問いかけ。

これが、この日のわたしのセカンド・びっくりです。

歌舞伎の“見栄をきる”の話題が出るとは全く予想してませんでした。

でも、言われてみれば、どちらの「見栄」にも(文字通り)、“かっこいい”とか“かっこよくありたい”という美意識がはたらいてる気がする!

さらにさらに、「見栄をきるにも上手い下手がある。見栄を張るにも上手い下手はある?」と興味深い問いが。

 

 

以下、個人的な感想です。

 

心身ともに「等身大でいること」をモットーにしているわたしにも、見栄を張っていることがあることがわかってよかったです。

「わたし、見栄張ってんな〜」ってポイントが自覚できました。

 

 

そして、対話の前は「見栄を張る」ことに対してネガティブな印象があって、なるべくやっちゃいけないことと思っていたのですが、「見栄を張るなら上手く張りたい」と思うようになりました。

でも、見栄を張り続けるのは背伸びをし続けるのが無理なのと同じぐらい無理だとわかったので、「友だちが家にくるときだけ掃除がんばる」ぐらいの小さくて瞬間的な見栄限定にしておこう。うん。

 

 

見栄を張るのをやめましたという方も、ついつい時々見栄を張っちゃうという人も、年賀状やお歳暮・お中元のやりとりに悩んでいる人も、なにかのヒントになれば幸いです。

 

ご参加くださったくださったみなさん、高島公民館のみなさん、ありがとうございました。