てつがくやさんの気まぐれ日誌

はなして、きいて、かんがえるをお手伝いする〈てつがくやさん〉、松川えりのブログです。

共生学系zoom企画「対話と共生」@大阪大学

10月1日(木)は、母校の大阪大学からのご依頼。

人間科学研究科・共生学系の学生・教員のみなさんと、zoomで「対話と共生」について考えました。

 

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最初の1時間は、哲学対話の実践などから「対等な対話は(どうやって)実現するか?」というお題でお話させていただき、休憩をはさんで、後半は「共生学は“誰”のものか?」というテーマで、対話しました。

 

「マイノリティとマジョリティ」、「当事者性」、「専門性」などをキーワードに、

「“誰ものか”と“誰のためか”は同じ?」

「共生学における当事者性とは?」

「“マイノリティ性”や“当事者性”の“性”の意味とは?」

「学問における専門性とは?」

「共生とは?」

といったと問いをめぐって対話が展開。

“誰のためか?”でも“何のためか?”でもない共生学のあり方、当事者性をもつ人が共生学を行う意味、専門家として共生学を行う意味などが語られました。

 

抽象的なテーマに思われるかもしれませんが、共生学の現場で共生学について考えるという、現場感あふれる対話。

わたしの専門である臨床哲学と重なりそうな部分も多く、かなり刺激的な内容となりました。

 

阪大在籍16年間ずっと憧れながらもキャンパスが異なるために縁遠かった人間科学研究科*1のみなさんと、いまになってこんなふうに関われるなんて。

 

縁あってお誘いくださった方、ご参加くださったみなさんに感謝です。

 

www.hus.osaka-u.ac.jp

*1:実は大学受験のとき最後まで文学部とどちらを受験するか迷ったのですが、文学部のほうが倍率が低かったので文学部を受験しました。

「幸せってなに?」@フリーデザイン岡山

9月30日(水)は、就労移行支援施設、フリーデザイン岡山へ。

哲学カフェをしてきました。

 

コロナの影響で、まだオープンな開催はできず内部の方(+見学の方)限定ですが、10名程の方が参加してくださいました。

こんなに集まったのは久しぶりでは? うれしい!

 

 

テーマは当日、参加者から募るスタイル。

 

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今回は、多数決の結果「幸せってなに?」に決定。

 

  • 複数の満足が重なったもの(例:寒い日に暖かい部屋でスープを飲む)
  • 期待以上の満足
  • マイナスがゼロになったとき感じるもの
  • 学習して感じられるようになるもの
  • なくして初めて気づく幸せ
  • 比較をとおして感じるもの
  • 優しさから生まれるもの
  • 与えられる幸せと与える幸せ

 

などなど、それぞれの体験からいろんな幸せとともに、「幸せと自己満足は同じ?」や「幸せを感じられるのはどんなとき?」といった問いが浮かび上がってきました。

 

この「いろんな」が、幸せそのものの多様性から生じるものなのか、幸せ観の多様性から生じるものなのかは、いま一歩確認しきれず‥‥‥。

しかし、同じ出来事や状態であっても幸せと感じられる場合と感じられない場合があるということは、共通していたような気がします。

 

なかには、「あー、そういう幸せもあるのか!」と思うものも。

それは、私にとって未学習の幸せなのかもしれません。

今後、学習して感じられるようになるかどうか、楽しみです。

 

参加者のみなさん=フリーデザインのみなさん、ありがとうございました。

 

今回とりあげられなかった「雑談って必要?」は来月のコミュニケーション・カフェで、

そしてここ何回かテーマ候補2位が続いている「生きる(意味)とはなにか?」は、再来月の哲学カフェでとりあげたいなと考えています。

話しやすさと対等性

先日の打ち合わせで、自分で言いながら、自分の言葉にはっとしたこと。

 

話しやすいかどうかと、対等に話せるかどうかは、必ずしもイコールではない。

 

特に職場や学校、サークルなどのコミュニティでは、ブルデューが「ハビトゥス」とよんだような慣習にのっとったほうが、話しやすさが増すこともある。

けど、その話しやすさが、必ずしも対等さを実現してくれるわけではない。

反対に、対等さを損なう可能性だってあるのだ。

 

そして、対等さが損なわれた関係性のなかでは、「ホントにホントのホント!?」を問うことは難しい。

 

哲学カフェの「盛り上がり」を、発言の多さや沈黙の少なさで測ることの危うさも同じ。

 

もちろん、話しやすさの実現と対等さの実現が重なる場面もけっこうある。

けれど、いつもそうというわけでもないということは、進行をするわたしが理解しておくだけじゃなく、今回のように対話を依頼してくれる方や参加者にも、必要があれば伝えれるようにしないとな。

 

ちょっと話しにくいぐらいが哲学するにはちょうどいい、ということも、ときにはある。